宋史卷四百十三 列傳第一百七十二 趙彦呐

蜀での経歴と挫折

  • 趙彦呐は字を敏若、彭州の人。四川の類試に及第。呉曦の叛乱時、偽守夔州の禄禧を義士とともに殺し名を上げた。嘉定12年(1219年)西和州が金軍の攻撃を受け、制使安丙の命で経理にあたり、金軍を撃退。北水関の修築や辺境四州の民兵組織化を献策したが実行されず、5年間州にとどまり軍民の心を得た。提点刑獄に転じ、沔州帥を務めたが、崔与之が安丙に代わってその大言に実がないことを見抜き、後日誤事する者はこの人だと朝廷に警告、辺藩を任せぬよう求め、節制権を奪われた。
  • 宝慶元年(1225年)興元帥に転任、紹定4年(1231年)桂如淵の後任として起用され、副使として仕えた。端平元年(1234年)正使に昇進。丞相鄭清之が出兵し洛陽回復戦に応じるよう促したが従わなかった。秦鞏の豪族汪世顕が内附を求めた際、彦呐は再三これを支持したが清之はついに従わなかった。端平3年(1236年)金人が三泉に大挙侵入し彦呐は大敗、衡州に貶された。子の洸夫も連座して嶺南に竄られ、史嵩之は彦呐を江陵に留めること2年で卒した。