出自と地方官歴
- 趙善湘は字を清臣、濮安懿王の五世孫。父武翼郎不陋は高宗の渡江に従い、明州の名儒が多いと聞いて移住した。恩蔭で保義郎に補し、成忠郎・忠翊郎・忠訓郎を経て、慶元2年(1196年)進士に及第、秉義郎・承事郎から金壇県丞、余姚県知事、通判婺州を歴任。嘉定元年(1208年)茶寇討伐の功で都堂審察を受け、無為軍知事兼淮南転運判官、淮西提点刑獄となった。以後、常州・武夷山冲佑観・湖州の知事、大宗正丞兼権戸部郎官などを歴任した。
淮南制置と李全討伐
- 淮南転運判官、淮西提挙常平兼無為軍知事を経て直徽猷閣・淮南制置司主管公事兼廬州知事、進宝章閣待制・松海制置使・建康府知事兼江東安撫使、行宮留守司公事を兼ねた。紹定元年(1228年)防江・寧淮両軍の創設と楚州叛卒劉慶福らの討伐の功で官を進められ、江東転運副使を兼ねた。紹定3年(1230年)李全が淮東を犯すと専討の便宜を委ねられ、翌年李全を討ち斬り、露布で報告した功により兵部尚書に進んだ。子の汝樆・汝楳らも軍功に関わり、季子汝楳は丞相史彌遠の婿であったため、上奏はことごとく朝廷に届いた。
- 江淮安撫制置使に転じ、泰州・淮安州・塩城・淮陰県の四城回復と京湖救援の功で端明殿学士に進み、留守を加えられた。金の枢密副使納合買住の投降を受け、盱眙軍・泗州・寿州の回復により資政殿学士を加えられたが、9度の辞任願は許されず、さらに大学士に進み天水郡公に封じられた。監察御史の弾劾に対し理宗は討逆復城の功をもってこれを差し止めた。嘉熙2年(1238年)四川宣撫使兼成都府知事を拝したが赴任前に沿海制置使兼慶元府知事に改まり、まもなく紹興府知事兼浙東安撫使に転じた。淳祐2年(1242年)観文殿学士守本官として致仕し、卒去した。著書に『周易約説』8巻、『周易或問』4巻、『周易続問』8巻、『周易指要』4巻、『学易補過』6巻、『洪範統論』1巻、『中庸約説』1巻、『大学解』10巻、『論語大意』10巻、『孟子解』14巻、『老子解』10巻、『春秋三伝通議』30巻、『詩詞雑著』35巻がある。