宋史卷四百十二 列傳第一百七十一 孟珙
出自と初陣
字は璞玉、随州棗陽の人。四世祖孟安は岳飛軍で功を立てた。嘉定十年(1217年)、父孟宗政が趙方配下として金軍を防ぐ際、珙は樊城急襲を予見して策を献じ、金軍を半渡で撃破した。棗陽救援戦で父子が離れ離れになった際、珙は敵陣にいる父を見つけ突撃して救出した。
棗陽防衛と忠順軍統率
嘉定十二年(1219年)完顔訥可の二十万軍が棗陽を包囲した際、城壁上から矢を放って将士を驚服させ、別路から金の砦十八を破った。父宗政の招いた唐鄧蔡の忠順軍二万余を統率し、紹定元年(1228年)には棗陽に平堰・通天槽を築いて十万頃の田を灌漑した。
金の残党討伐(唐鄧経略)
紹定六年(1233年)、大元軍が金主完顔守緒を蔡州に追い詰めた際、珙は鄂を守り唐鄧行省武仙討伐を命じられた。武天錫を撃破しその首を献じ(俘虜十二万余)、金の武将移刺瑗を降し、武仙の九砦を巧妙な間謀策で一つずつ攻略、最終的に武仙軍七万を降した。
蔡州攻略と金の滅亡
大元軍の将領倴盞との共同作戦で蔡州を攻囲。柴潭の水を決壊させて城を攻略し、丞相烏古論栲栳らを降し、金の参政張天綱を捕らえた。端平元年(1234年)正月、金主完顔守緒は自経し、珙は倴盞と共に遺骨を分収した。
襄陽・江陵の防衛
建康府都統制・鄂州諸軍都統制などを歴任し、鎮北軍(中原精鋭一万五千余)を統率。大元軍の来襲に際し、大元軍は宣撫使玉□を遣わして共に蔡州を攻めることを約したが、その後も黄州・光州・信陽などを次々に防衛し、江陵に隘・堤の大工事を施し三海を一つに統合する治水を行った。
四川・淮南への支援と最期
制置使として夔路の防備を三層に分ける構想を提起し、四川宣撫使范用吉の降誠を朝廷に上奏したが用いられず「三十年収拾中原の志を伸ばせぬままか」と嘆いた。淳祐六年(1246年)九月、江陵府の任地で病没。少師・寧武軍節度使の官を贈られ、太師・吉国公を追贈、「忠襄」と諡された。著書に『警心易賛』がある。