宋史卷四百十一 列傳第一百七十 歐陽守道
出自と孝行
字は公権、一字迂父、吉州の人。初名は巽。幼くして孤貧、師無くして自学。子弟の師となった際、食を節して母に贈った孝行が里人を感動させた。江万里に見出され、淳祐元年(1241年)進士。廷対で国事の成敗を宰相の資質に、人材の消長を台諫の言論の在り方に帰した。
書院教育への尽力
白鷺洲書院・岳麓書院で講学し、孟子の性善説を発明して学者を悦服させた。安南国王陳日照の「太上国王」称号の可否について礼制上の考証を示した。転対で「化するに倹をもってし、廉をもってす」べきことを説き、これが罷免の理由となった。
晩年の清廉
理宗遺詔に哭泣し、咸淳三年(1267年)少傅呂文徳の推挙で通判建昌軍に添差された。「大将軍は士を薦めず」という史書の言を引いて謙遜した。著作佐郎兼崇政殿説書などを歴任し、卒した際は家に一銭も残らなかった。兄の遺児二人を実子同様に育て、旱害の際は「怨みを訴える民の声にこそ天への祈りがある」と説いた。著書に『易故』『文集』がある。
史論
湯璹は朝廷にあって剛直に諫言した。蔣重珍は科挙首席という盛名を負いながら、当世に功績を樹立した、これは難しいことである。牟子才・朱貔孫は直言の誉れが中外に著れた。歐陽守道は廬陵の醇儒である。