宋史卷四百十 列傳第一百六十九 婁機
出自と地方官
字は彦発、嘉興の人。乾道二年(1166年)進士。含山主簿として銅城圩の大規模治水を成し遂げ、於潜県丞・知西安県・通判饒州などを歴任し、寃獄を晴らし賦税の弊を正した。
中央での要職
祕書郎・太常博士を経て資善堂小学教授として皇太子に修身治国の道を講じ、著作郎・監察御史を歴任。韓侂胄の開辺策に強く反対し、恢復の名目の危険性を説いた。侂胄誅殺後は吏部侍郎兼太子左庶子として「至公の政」を説き、権臣の私恩私讐に基づく人事を排すよう主張した。
晩年の重職
給事中・礼部尚書兼給事中を経て、同知枢密院事兼太子賓客・参知政事に進んだ。金との和議成立後の弊政の立て直しに尽力し、名器を重んじ法度を守った。嘉定二年(1209年)皇太子冊命の礼で中書令を摂した。度々致仕を願い、資政殿学士知福州を経て提挙洞霄宮として致仕、卒後金紫光禄大夫・特進を贈られた。著書に『班馬字類』がある。