宋史卷四百九 列傳第一百六十八 唐璘

出自と直言

字は伯玉、古田の人。嘉定十年(1217年)進士。策論で台臣李安行の辺事論議禁止案を痛烈に批判した。呉県尉として殺人事件の冤罪を見抜き、真犯人を捕らえた。

淮東での軍務

瑞州学教授として白鹿洞の教法を導入。淮東運司催轄綱運官として楚州出師に随行、金人の淮陰占拠に対する対策で「捷奏の誇張」を批判し、贖淮陰策の失敗(我が軍死傷六万)を『讜論』に直書した。

監察御史として

制置使陳韡に推挙され通判建康府を経て監察御史に抜擢。緝熙殿での対座で天変・民怨・宰相の失政・佞臣の専横を痛論し、崔与之・喬行簡の登用を進言。鄭清之の誤国、その子士昌の権貪、鄭性之の私党庇護、李鳴復の阿諛を弾劾した。

辺防の実務

広西運判・知嘉興府・江東運判・四察訪使(建康・太平・池州・江西担当)を歴任し、土豪を組織し漁業・水手・茶塩舟夫らを動員して防備を固めた。総領所の銭二十万緡を割いて江防を強化し、知広州廣東経略安撫使として梅州の賊を威信で鎮めた。

晩年

太常少卿に擢用されるも、内艱に遭い喪中に病を得て卒した。御史台在任わずか百日で唐介の再来と称され、母の教えに負うところが大きかった。

史論

高定子が西陲において挙げた政業は世に著しい。斯得は権臣の手にたびたび挫かれ、再起した時にはすでに宋事は非となっていた。張忠恕が済邸の事を論じたのは、祖父・父の風を受け継ぐものであった。唐璘もまた古の遺直と称すべき人物である。