宋史卷四百九 列傳第一百六十八 張忠恕
出自と初任
字は行父、右僕射張浚の孫。祖の任により出仕。韓侂胄の権勢が盛んな頃、民間の已婚女性を奪おうとする権門の横暴を府尹に訴え退けさせた。
地方官としての活躍
知寧国府として旱害の際、僧牒・米穀の下賜を得て民を救済し、後の備えのため戸口を精査し、諸邑に厳戒して富家に蓄えを放出させるよう諭した。廟制の議論では九廟の制が古制に合わぬことを指摘した。
孝礼をめぐる建言
理宗即位後は史弥遠に書を送り、孝宗が二十七年にわたり三年喪の礼を尽くした先例に倣うよう進言。宰輔らの太母聴政要請に対しては、英宗・仁宗の故事を引いて過度の権限集中を戒めた。寶慶初年、求言の詔に応じ八事を陳じた。天変への畏れ、光宗の喪礼の先例、慶寿の礼における奢侈への戒め、婚儀の慎重な検討、済王への処遇の不備、直言者を好名と誹る風潮の危険、柴中行・陳孔碩・楊簡・陳宓・徐僑・傅伯成・李心傳ら遺賢の登用不足、士風の頽廃と賄賂の横行を痛論した。この封事は朝士に広く伝誦され、魏了翁・真徳秀に称賛された。
晩年
輪対で伯父張栻が孝宗に語った「暁事の臣を求めよ、辦事の臣を求めるなかれ」の言葉を引いて諫言。知贑州として赴任するも中傷され罷免、後に復官し致仕。魏了翁は忠恕を「祖父浚の撥繁剸劇の才、父杓の斂華就実の性、加えて義理の学に志す者」と評した。