宋史卷四百九 列傳第一百六十八 髙斯得

出自と父の死

字は不妄、稼の子。父李坤臣に学ぶ。紹定二年(1229年)進士。端平二年(1235年)九月、父稼が沔州で戦没した際、大元軍が沔にある中、危険を冒して遺体を収容した。

史官として

李心傳の下で四朝史編纂に加わり、光宗・寧宗紀を分修。史館校勘として丞相史嵩之に対座で直言し、その意に逆らったため左遷された。叔父定子と同朝で史事を担うことは美談とされたが、嵩之の党により通判紹興府に出された。四朝帝紀完成の際、嵩之が理宗・済王に関する記述を改竄させたことに対し、史官杜範・王遂と共に抗弁した。

嵩之弾劾と左遷

朔日食に応じた封事で史嵩之の姦悪を痛論し、大臣の道を尽くさぬ様を厳しく批判。監察御史江万里らも嵩之を弾劾したが処分は不徹底に終わった。知厳州に左遷され、旱害の際は租を蠲し米を振済した。浙東提点刑獄として知処州趙善瀚・知台州沈塈ら七人を弾劾するも、彼らが権臣の縁者であったため報復人事に遭い、自ら鐫罷を願い出て節を通した。

湖広提点刑獄としての活躍

攸県の富民陳衡老の武力犯罪を糾弾し、賄賂を受けた首吏を厳罰に処し、衡老の官を追奪した。その婿呉自性らによる中傷謀略も看破し、多数の関係者を処罰した。理宗はこれを聞き「高某は硬漢だ」と評した。左司・侍立修注官などを歴任し、給事中趙汝騰の左遷に抗議する封事を上奏、賢者が退けられ小人が進む現状を憂えた。

度宗朝の直言と宋の滅亡

福建計度転運副使として「自実田」制の欠陥を秦始皇の故事に比して批判。浙西提点刑獄・秘書監・起居舎人などを歴任し、度宗の即位後は工部侍郎・翰林学士知制誥兼侍読・端明殿学士簽書枢密院事兼参知政事に進んだ。大元軍の南下に際し、姦臣誅殺・言路開放・人材登用・忠義表彰を説く痛切な封事を上奏。丞相賈似道の誤国を弾劾する台諫を庇い、丞相留夢炎の似道庇護策を厳しく批判した。夢炎が罷免され、まもなく宋は滅亡した。著書に『詩膚説』『儀礼合抄増損』『刊正杜佑通典』『徽宗長編』『孝宗繫年要録』『恥堂文集』がある。