宋史卷四百九 列傳第一百六十八 髙定子

出自と初任

字は瞻叔、稼の弟。嘉泰二年(1202年)進士。郪県主簿となるが、呉曦の反乱で辞して母に仕え、曦誅殺後は忠孝両全と評され中江県丞に任じられた。父に仕えて六十日間衣を解かず孝を尽くした。

地方官としての善政

丹稜令・知夹江県などを歴任し、塩酤・田訟・賦税の弊を次々と正した。総領所の幕僚として酒榷の弊を糾し、制置使鄭損の小会子廃止策に強く異を唱え、川引の存続を勝ち取った。知長寧軍・知綿州を務めた。

大元軍侵入時の危機対応

大元軍が鳳州・武休を陥し文州守楊必復を殺した際、知綿州として潰兵・流民を鎮撫。自ら「太守を殺すも一槍で足りる、軍器は無用」と諸軍を説き伏せ、潰卒に銭米を給して安撫し、彰明に集結した和彦威らの大軍にも毅然と対応して銭四十万緡を給し撤退させた。この功により官を三たび進められた。

中央での言論活動

入朝して史弥遠の専権を暗に諫める発言をし、危惧されたが咎めを受けなかった。江南東路転運判官・司農卿・太常少卿・起居舎人などを歴任し、辺事や災異について度々上疏。翰林学士知制誥兼吏部尚書に至り、四朝(孝宗・光宗・寧宗・理宗)日暦の編纂に携わり、李心傳を推挙して四朝志伝を完成させた。

晩年

端明殿学士簽書枢密院事・権参知政事・知福州福建安撫大使を歴任するも固辞して呉中に隠退、著述に専念した。資政殿学士を以て致仕、卒後少保を贈られた。夾江に同人書院、長興に学を興し六先生の祠を創建。著書に『存斎文集』『北門類藁』『薇垣類藁』などがある。