宋史卷四百八 列傳第一百六十七 王霆

出自と武挙

字は定叟、東陽の人。高祖父は方臘討伐の功で補官された豪族。武挙に嘉定四年(1211年)絶倫異等で及第し、喬行簡に才を認められた。鄂の軍に従い、総領綦奎の下で軍教練を統括した。

淮西の戦功

沿江制置副使李□の幕下で淮右の兵乱を招諭し、軍制の弊を指摘して正軍の充実を説いた。潘甫の乱の鎮撫、李全討伐戦(揚州での大小十八戦、いずれも勝利)で武功を挙げた。閤門舎人として召見され「恢復」策を論じ、規模・機会の両面から現状の弊害を具体的に列挙した。

辺境の守将として

知濠州・知安豐軍・知光州を歴任し、北兵の来襲に際しては夜を徹して赴任し防備を固め、謝令橋で大戦を制して光州を守り抜いた。丞相鄭清之・史嵩之の留任要請を「士大夫は道をもって世に従うべし、世をもって道に従うべからず」と断って辞した。

晩年

淮西馬歩軍副総管・沿江制置副使司計議官などを歴任し『沿江等辺誌』を著した。「両淮は藩籬、大江は門戸、三輔は堂奥」と説き、三新城の建設を丞相杜範に献策したが用いられなかった。父の遺産を兄に譲り、宗族に恩を施した。著書に『玉渓集』がある。

史論

呉昌裔は東南に道を訪ねること実に勤勉であり、その学に雑駁なところがなかった。汪綱の遺愛は越の地に残り、賢を択んで久しく任ずるという古の理念そのままであった。陳宓は宰相の子として直諫を貫き、今なおその名は輝く。王霆は兵家の言に通じつつ「道をもって世に従うべからず」と説いたが、これは古人が将帥に礼楽詩書を重んじさせようとした心と同じである。