宋史卷四百八 列傳第一百六十七 陳宓
出自と初任
字は師復、丞相陳俊卿の子。少くして朱熹の門に学び、後に黄榦に従学。父の任により泉州南安塩税・南外睦宗院・西外睦宗院・安渓県知事を歴任した。
直言の士
嘉定七年(1214年)進奏院に入り、宮中の浪費や大臣の私党化、鈔塩・楮幣政策の失策、賞罰の乱れなどを痛烈に批判する封事を上奏。丞相史弥遠の不興を買ったが、宮中の慶寿のための三牙の献上を止めさせる効果があった。九年(1216年)には転対で人主の徳・大臣の心・台諫の言の三点を論じ、上下が欺瞞し合う朝政の実情を鋭く指摘した。
地方官としての善政
知南康軍として大凶作の際に賦税の十分の九を蠲し、流民を役に就かせ食を給した。白鹿洞で諸生と学を講じた。知南剣州でも大旱・疫病に際し逋賦を蠲し、延平書院を創建して白鹿洞に倣った学規を布いた。知漳州に任じられたが寧宗崩御の報に哭泣し、間もなく致仕を願い出た。
人柄と著作
天性剛毅で信念篤く、朱墨の銘を作って理欲の分を戒めとした。顔真卿・陶潜・諸葛亮を範として清廉な生涯を貫いた。端平初年、殿中侍御史王遂の建議により直龍圖閣を贈られた。著書に『論語注義問答』『春秋三伝抄』『読通鑑綱目』などがある。