宋史卷四百八 列傳第一百六十七 汪綱

出自と初任

字は仲挙、黟県の人。枢密院を務めた汪勃の曾孫。祖の任により出仕し、淳熙十四年(1187年)銓試に及第、鎮江府司戸参軍に任じられた。守将馬大同の鉄銭交子政策に異を唱え、私鋳の弊を正して国用を損なわぬよう建策、大同を悟らせた。

地方官としての治績

桂陽軍平陽県令となり、溪峒の蛮蜑による害を鎮め、銀鉱の枯渇に応じて重税を軽減。飢饉に乗じ千余人で乱を起こした賊徒を、酒食を与えつつ首悪八名のみを処罰して鎮定した。金壇・弋陽・蘭渓の各県を歴任し、蘭溪では旱害時に常平銭を借りて糴本とし水利を興して民を救った。

辺務と財政の整理

金人が主允済を殺し新帝が即位を告げてきた際、綱は使者の言葉遣いが不遜であるとして礼を厳しくすべきと説いた。高郵軍知事として揚楚二州の防備を進言し、淮東常平として塩政・漕運を整理し、虚額を摘発して大幅な増収を実現した。戸部員外郎として淮東の軍馬財賦を総領し、辺境の兵糧調達を差配した。

浙東での善政

知紹興府・浙東安撫使として蕭山の運河を開削し、諸暨の湖田・海田の水利を整備し、水軍を創設して防備を固めた。大水害の際は粟三万八千余緡・銭五万を発して振恤し、経総制の虚額を摘発して民の負担を軽くした。理財・軍政に精通し、清廉な政治で越の民に深く慕われ、卒した際には哭泣する者が多かった。著作に『恕斎集』『左帑志』『漫存録』がある。