宋史卷四百八 列傳第一百六十七 吳昌裔

出自と学問

中江の人。字は季永。幼くして父を失い、兄の泳と共に学問に励み、程頤・張載・朱熹の書を読み耽った。嘉定七年(1214年)進士に及第。漢陽の太守黄榦が朱熹の学を修めていると聞き、その門に入った。

地方官として

閩中尉に任じられ、利路転運使曹彦約に才を認められ糴場を司った。飢饉の年、上流の米を発して糴わせるよう進言し、これに従われた。眉州教授に転じ、諸経を講じ、周敦頤・程顥・程頤・張載・朱熹を祠に祀り、白鹿洞の学規を掲げて学風を刷新した。制置使崔与之の推挙で華陽県知事となり、学宮を修め、二十万緡を投じて良田を買い旱害に備えた。眉州通判となって「苦言十篇」を著し蜀の政情を論じた。漢州を権知した際は前任の弊風を改め、社倉を興し郡政を整えた。

言官として直言す

端平元年(1234年)、軍器監簿に召され、太常少卿・皇后宮教授を歴任。監察御史に拝され、彈劾に一切の遠慮を見せず、天理・天徳・天命・天工・天職・天討の六事を挙げて朝政の乱れを痛論した。趙善湘の子汝櫄・汝榟らの田訟事件を糾弾し罷免させた。将帥の失態や辺将の怠慢、宮廷の私謁の弊を次々と上疏した。

蜀への出向と晩年

権工部侍郎として四川宣撫使司の軍事に参賛すべく出向を命じられた際、これは李綱が太原を救援させられた故事と同じ左遷であると人々は評したが、昌裔は君命に従い病を押して赴任、道中で重病となった。祕閣修撰・知嘉興府に転じたが辞退し、後に知婺州となり旱害の民を救済して租八万一千余石・銭二十五万余緡を蠲した。集英殿修撰に進み、寶章閣待制を以て致仕、間もなく卒した。剛正で典章に通じ、『儲鑑』『蜀鑑』のほか奏議・講義・随筆類多数を著した。没後「忠肅」と諡された。