宋史卷四百四 列傳第一百六十三 章頴

章頴、字は茂献、臨江軍の人。孝宗の求言に応じて上書し登用され、言官として直言を続けた。党論に巻き込まれて幾度も左遷されたが、韓侂胄誅殺後は復権して礼部尚書・侍読に至った。生涯風節を保ち、朱熹にも高く評価された。

年表(2件)

出自と諫争

  • 章頴、字は茂献、臨江軍の人。経学を兼ねて郷薦に中り、孝宗が嗣位して求言の詔を下すと万言の書を作って駅に附して奏聞、礼部奏名では第一とされ、孝宗はその文が陸贄に似ると称した。道州教授に調任し周敦頥祠を作った。宜章寇が乱をなすと僚が相継いで去ったが頴独り留まり寇は平定した。郡守が功を郎に入れる際、頴に協賛の功があり大用すべしと奏し、召対して太学録に除され、礼部正奏第一人に任じられた。初任の郎が召対されるのは頴から始まった。
  • 時に樞密都承旨王抃が言者により外祠に処されると、頴はまた「その風金使が過ぎるのを求めて自任を功と調護している」と論じたため、孝宗はその言が大訐(過激)であるとしたが、しばらくして考試官に任じる際、孝宗が「章頴でよい」と述べ、上(帝)は依然としてその讜論を記憶していたのだと知れた。まもなく太学博士に遷り内艱に丁り服闋後添差通判贛州、太常博士を除された。御史中丞何澹が継母の訃を聞いて事に逮していないことを述べたが引かなかった際、頴はこれを解官すべきと議定し、澹はなお決せず侍従朝列を下して集議することを乞ったが、太学の諸生はこれを攻めて「朝廷はもっぱら奉常を設けたのは議礼の由って出る所であり、今議禮の由って出る地に従わず、逆に議禮不公として侍従朝列に集議させようとするのは、逢迎希合して苟且に留まり進身の計をなそうとするものではないか」と述べた。左司諫に除される。

党論の渦中で

  • 左相留正が去り右相葛邲が国事を当たった頃、頴は葛邲が大事を任せるに足りないと二十余疏を論じ、従官の議は頴を超遷して言職から去らせ両者を留めようとしたが、光宗は「これほど良い諫官をどうして遷らせようか」と述べた。葛邲が去ると頴は屡々上重華宮に問安するよう請う疏を上げたがその藁は悉く焼かれた。寧宗即位後、侍御史兼侍講に除され、まもなく権兵部侍郎となる。韓侂胄が用事する中、頴が経幃に侍する際、上が「諫官には趙汝愚に言及する者がいるが卿らはどう思うか」と問うと、同僚は無可否だったが頴だけは「天地は変遷し人情は危疑し、加えて敵人が嫚侮する中、国勢が未だ安からず、軽々しく大臣を進退させてはならない。願わくは詔を降して汝愚に諭し、その去るのを聴かないでほしい」と奏したが報われなかった。
  • 汝愚の待罪を奏し郡へ出るよう請うと、御史が頴の阿党を劾して罷めさせた。太学生周端朝ら六人が闕に伏して汝愚の誣を弁じ、章頴の言は忠から発したことを述べ真っ先に斥逐された。端朝らも皆罪を被り、これより党論が起こった。頴は家居し久しく、起きて知衢州となるが侍御史林行可がこれを劾罷、まもなく知贛州となるが御史王益祥が復劾しその命を寝め、再び祠に処し次で知建寧府に需次した。侂胄誅殺後、集英殿修撰に除され累遷して刑部侍郎兼侍講となり、延和殿で対面すると上は「卿は権臣に沮抑されること甚だ久しかった」と歎じた。頴は甲寅(開禧の年)龍飛の事迹の誣筆を修改することを乞い、吏部侍郎に除され、まもなく礼部尚書に遷り侍読に昇る。頴に紹熙・慶元の間の譙令憲の玉牒の誣を辨じさせる詔があり、余端禮・趙彦逾らの甲寅龍飛記及び趙汝愚が当時記した事を考訂して誣を削り実に従わせ上呈した。
  • 祠を乞い、嘉定11年(1218年)卒した。年七十八。頴は操履端直で生涯風節を保ち、窮達に動かされることなく、仕途に偃蹇(不遇)が多かったが清議はこれに味方した。党論が起こった際、朱熹は書を遺わして「世道が反覆したことは既に涕を流すに足りるが、事を握る者の怒りはなお止まないだろう。ついにどこまで至るか知らないが、しかし宗社に霊があり公論も未だ泯びていない、いずれ必ずこの責を任ずる者が現れよう、公でなければ誰に望むことができようか」と述べた。光禄大夫を贈られ諡は文肅。