宋史卷四百三 列傳第一百六十二 張威

張威、字は徳逺、成州の人。開禧の兵事で功を挙げ、呉曦誅殺後は西和州奪還などで名を高めて利州副都統制・沔州都統制などを歴任した。「撒星陣」を創案するなど独自の戦法で金軍を破り、晩年は安丙の命で紅巾賊平定や西夏との共同作戦にあたったが、成果を挙げられず兵権を奪われ、まもなく利州で没した。

年表(2件)
  • 嘉定12年1219年金の蜀侵入に対し金斗鎮・大安軍で撃破し西進を防いだ
  • 嘉定12年1219年紅巾賊平定後、西夏との共同作戦が不首尾に終わり兵権を奪われ、この年利州で没す

出自と初期の戦功

  • 張威、字は徳逺、成州の人。選鋒軍の騎兵に策せられた。軍中の馬料は一馬につき米五石を給されるが、騎軍がその余りを私して自給に充てていたため、総領がこれを覈実し裁抑すると、威は逃亡した。帥の郭杲がその父に招かせ帰還させ、隆慶府後軍効用に送られた。威は貧しく薬を売って自給していたが、才勇ありと言われ辺境に戍させられた。開禧の兵事で金と戦い常に勝ち、功により本軍将領に補された。呉曦が誅殺された後、将を遣わして李貴が西和州を回復させると、威は衆を率いて先登、板橋で金軍を破って西和を取り、統制に昇進し、これにより名声が大いに高まった。天水県は金の西進の要路にあたるため、県を昇格させて軍とし威をその守将とした。屡々竒功を立て利州副都統制に抜擢され、父の喪に服し帯御器械を除された。その後、荆鄂都統制・襄陽府駐劄に転じ、沔州都統制に改められた。

蜀の防衛と大安軍の戦い

  • 嘉定12年(1219年)金が分道して蜀に入り狄池堡・白環堡を犯すと、威の部将石宣・董炤が連破した。金がさらに成州を犯すと、威は西和から仙人原に退保した。この時興元都統制呉政は黄牛堡で戦死し、李貴が政に代わり武休へ急行するが、金は既に武休を破り興元を陥落させ、さらに大安軍も陥落させた。利州路安撫使丁焴は金の深入を聞き、書を送って威に東進し蜀を救うよう求め、忠義総管李好古にも北上して防禦させたが、好古は魚関を出て統領張彪と遭遇し、彪が迷竹関を棄てたためこれを斬った。彪は威の弟であった。威は弟の死を聞き按兵不動、動かなかった。丁焴は僚佐に「呉政は身死し李貴は再び兵敗、金人が畏れるのは威のみ。今好古は擅に彪を殺し威の心を失った、どうすべきか。金は東にあり威の担当地域ではない、今好古を無くしても威は無くせない」と語り、好古を召見してその擅殺の罪を数えて斬り、威に書を送って速やかに救援を求め、士人田遂を遣わして説得させた。威は感激して夜半に軍を発し、鼓を打ち鳴らして進み、金斗鎮で金軍を破った。金軍は敗れたがまだ退かず、威は兵を頓めて動かず、密かに石宣らを大安軍で襲わせ大破した。金の来襲軍は選抜された両歯馬と精兵三千だったが、ここで殲滅された。将の巴土魯を捕虜とし、大将包長壽はこれを聞いて夜に遁走した。

興元の乱鎮圧と西夏との連携

  • 興元の叛兵張福・莫簡が乱を起こし、紅い帕を頭に巻いて「紅巾隊」と号し利州を焼いて総領楊九鼎を殺し、閬・果を破って遂寧に入り、遊騎が潼漢の境にあって成都を窺おうとした。制置司は賊勢が西を目指すのは威でなければ防げないと判断し、精兵六千を率いさせ剣・綿から広漢に至らせ、盛夏の暑さのため三日休養させた。まもなく安丙の檄により東進、賊は遂寧から普州の茗山に入ったため、威は進兵して重囲し糧道を絶って昼夜迫り、まもなく張福ら十七人を捕らえて戮し、莫簡は自殺して賊は平定された。
  • 西夏が来って夾撃を約すると安丙はこれを許し、王仕信を鞏で夏人と会わせ、威と利州帥程信、興州帥陳立らに分道並進を命じ、威は秦州へ向かうことになった。威は当初、金がなお強く夏人は反覆常ならぬので軽々に動くべきでないと主張したが、安丙は聴かず結局威を遣わした。威は黽勉として行き部下に軽挙妄動を戒めたが、諸将は城下に至るも功なく撤退した。安丙は怒ってその兵権を奪う奏を行い、この年、威は利州で卒した。終位は揚州観察使。

人物と戦法

  • 威は当初行伍にあって勇で称され、偏裨に進み毎戦勝利し、金人はその名を畏憚した。陣に臨み戦が酣となると精采がいよいよ奮い両眼が赤くなることから「張紅眼」または「張鶻眼」と号された。浄天鶻の旗を立て自ら表し、戦うたびに他の兵器を用いず木棓(「紫大蟲」と号す)を用いた。円くて刃なく長さ六尺に満たなかったが、これを揮って陣を掠めると敵は皆靡いた。荆鄂は平川広野が多く、威は「これは彼の騎兵に有利で、鉄騎が一衝すれば我が歩兵の技は窮する。蜀中の戦法は用いられない」として新たに「撒星陣」を創案した。分合が一定せず、鼓を聞けば集まり金を聞けば散じ、騎兵が至れば金を鳴らして一軍を数十簇に分散、金軍が分かれて追えばまた鼓を鳴らして集結、瞬く間に分合が数変し金軍は対応を失い、その後で撃つことで勝ち続けた。威は軍紀厳整で、行軍は常に枚を銜むように静かで、百姓を避けて食物を買う際は市価の倍を払い誰も敢えて喧しくしなかった。晩年は嗜欲が多く病がちで長寿でなかったという。

史論

  • 宋の南渡以降、辺境の将の才がいかに少なかったことか。江南は用武の地ではないという説もあるが、古の善兵者である孫武子もまた呉人であった。先王の世には文武二道の別はなく、文武が分かれてから才がそれぞれ偏るようになったのだろう。趙方は若くして張栻に学び、国への忠誠と臨機応変の智略を持ち、隠然と樽俎折衝の風があった。その部下たる扈再興・孟宗政も後に名将となったのは趙方の育成の力であった。趙方の子范・葵、孟宗政の子珙も功名を自ら成し、父に恥じない者たちだった。賈渉は方面を治め才ありと称されたが、その庶孽(李全を指す)に至って遂に国を亡ぼす結果となったのは嘆かわしい。張威は衆を統率することに優れていたため、至る所で功を立てたという。