宋史卷四百三 列傳第一百六十二 孟宗政
孟宗政、字は徳夫、絳州の人(隨州に移住)。父孟林は岳飛に従軍した。趙方に見出されて棗陽の守将となり、金軍の再三の猛攻を大小の激戦の末に撃退して襄漢を守り抜いた。中原からの流民を安んじて「忠順軍」を組織し、金人からは畏敬をこめて「孟爺爺」と呼ばれた。子の孟珙も名将となった。
年表(4件)
- 開禧2年1206年完顔董の襄郢侵攻に対し義士を率いて遊撃し輜重を奪う
- 嘉定10年1217年棗陽の囲みを急襲で解き、棗陽軍を権知する
- 嘉定11年1218年完顔賽不の棗陽包囲を扈再興と合兵し数ヶ月の激戦で撃退
- 嘉定12年1219年完顔訛可の大攻勢を撃退し武功大夫兼閤門宣賛舎人に昇進
出自と初期の戦功
- 孟宗政、字は徳夫、絳州の人。父の孟林は岳飛に従い隨州に至り、そこに家をなした。宗政は幼くして豪偉で胆略があり、常に疆場に出没した。開禧2年(1206年)金将完顔董が襄郢を犯すと、宗政は義士を率い険を拠って遊撃し輜重を奪った。宣撫使呉獵はこれを奇として承節郎・棗陽令に補し、京西路分趙方・呉柔勝もその才を薦めて秉義郎・京西鈐轄・襄陽駐劄に転じた。
- 嘉定10年(1217年)金人が襄陽・棗陽を犯すと、趙方は宗政に神勁・報捷・忠義三軍を節制させ、宗政は統制扈再興・陳祥と三軍に分かれ伏兵を三所に設け、蹀血して戦い金兵を敗走させた。まもなく棗陽の囲みが急を告げると、宗政は正午に峴首を発ち夜明け前に棗陽に到達し、神のように突撃、金人は大いに驚き夜に遁走した。趙方はこの時京西帥に移っており、捷報を聞いて大喜びし宗政に棗陽軍を権知させた。就任にあたり寵愛する僕が新令を犯すと即座に斬り、軍民は畏怖した。堤を築いて水を積み城壁を修治し軍士を簡閲した。
棗陽の攻防(一次・二次)
- 嘉定11年(1218年)金帥完顔賽不が歩騎で城を包囲し、宗政は扈再興と合兵して三ヶ月・大小七十余戦、宗政は常に士卒に先んじ、金軍は戦うたびに敗れて忿りを増した。城を周って濠を開き四面に兵を控え、飛鋒鏑には縄鈴を用いて自警し、鈴が鳴れば犬が吠える仕組みを作った。壮士を厚く募り隙を突いて突撃し金軍は支えきれず、盛兵で城に迫ると宗政は方に応じて力戦した。隨守許国の援軍が白水に至り鼓声が相聞くると、宗政は諸将を率いて出戦、金人は奔潰した。金帯を賜り武徳郎に転じた。
- 嘉定12年(1219年)金帥完顔訛可が歩騎で城に迫ると、宗政は袋に糠と沙を詰めて楼棚を覆い、瓮に水を貯めて防火に備え、砲手を募って撃たせ一砲で数人を殺した。金は精騎二千(弩子手と号す)を選び雲梯・天橋で先登し、また銀鉱の石工を募って昼夜城を塹り茅葦を運び圜楼の下まで至り楼を焼こうとした。宗政は先に楼を焼き、深坑を掘って地道を防ぎ戦棚を創って城を防ぎ、穽を穿ち隕(陥)ると毒煙烈火で燻した。金人は湿った氈で塞ぎ土を刳り、城が頽れ楼が陥ちると、宗政は楼を移し薪を積んで火山とし退路を絶ち、勇士に長槍勁弩を持たせて距離を守らせ、楼が陥ちた数丈の箇所に偃月城を築いた。袤(長さ)百余尺で正城に沿い、深坑を倍にし、自ら五日間督役して築いた。金は精強な兵を選び厚い鎧・氈衫・鉄面をつけ、湿った氈と革を纏い火山を冰雪で覆って雲梯で西北の圜楼に直接登城したが、城中の軍は長戈でその喉を突いて殺した。敢勇軍が下から挟撃し、金兵は墜落死し炎に焼かれた。金将は後方でその軍を截り拒馬と揮刀で前進を阻んだ。昕(あさ)から昃(ゆう)まで死傷が続き、梯橋は尽く焼かれた。金は連戦連敗も志を得ず、順風に乗じて濠を渡り脂革を飛ばして戦棚を焼いた。宗政は将士を激励し十五陣血戦、矢石が交わり金兵の死者は千余、弩子手の七、八割が射殺され都統も殪れた。天が風向きを変え金軍はいよいよ怒り砲撃を強めた。ちょうど王大任が精鋭千を率い重囲を冒して城に転戦入城、内外呼応し士気は大いに振るい、賈勇して金営に突入、晡(ゆう)から三更まで戦い金人の屍が地を覆った。銅印十六個を奪い、訛可は帳を捨てて逃走、輜重・牛馬を万計獲得し、捷報が朝廷に届いた。朝廷は前戦の守功を記し武功大夫兼閤門宣賛舎人に昇進させ、金帯を重ねて賜った。制置司は湖陽県が境に迫ることを理由に宗政に図らせ、一鼓で城を抜き積聚を焼き営砦を夷らげ俘虜を持ち帰った。金人はこれ以後襄漢を窺わなくなった。
棗陽の統治と晩年
- 許国が棗陽から金陵に移ると、宗政は荆鄂都統制を代行しつつ棗陽を知った。宗政は濠に迫って陣を布き、西北の濠外に水を瀦えて泥濘とし騎兵の侵入を制限した。中原からの遺民が万を数え来帰すると、宗政は廩を発いてこれを賑わし田を給し屋を建てて住まわせ、勇壮な者を籍して「忠順軍」と号し、唐鄧の間に出没させて威を境外に振るった。金人はこれを「孟爺爺」と呼んだ。まもなく疽を病んで卒した。右武大夫・団練使・防禦使に転じる。宗政は功ある者には怨みがあっても必ず賞し、罪ある者には親であっても必ず罰し、賢を好み善を楽しむ性は天性から出ており、未だ兵法を学んだことがないのに暗にそれと合致した。死の日、辺城は市を罷めて慟哭したという。子の孟珙には別に伝がある。