勇猛と初期の戦功
- 扈再興、字は叔起、淮の人。膂力があり機変に富み、毎戦被髪肉袒し徒跣で双刃を揮って奮呼し陣に入り、人馬が辟易するほどだった。金が襄陽・棗陽を犯すと京西制置使趙方の檄により扈再興らが防禦にあたり、金軍は団山から風雨のような勢いで来た。扈再興は孟宗政・陳祥と三陣に分かれ伏兵を設け、扈再興が一陣を出して郤け、孟宗政と陳祥が左右両翼で合流し掩撃、金軍は三方から受敵して大敗し血肉が山谷に散らばった。神勁統制に任じられた。
棗陽の攻防
- 金が再び棗陽を犯すと扈再興は救援に赴き、金は聞くとすぐ夜に潰走した。金は数万を増兵し九十日包囲を続けたが、扈再興は夜に鉄蒺藜を密布し明け方偽って退却、金軍が馳せて蒺藜を踏み七、八割が倒れ、これを十五里岡まで追撃した。まもなく金兵が城の東隅を攻め南門と北角に迫ると、扈再興・孟宗政・劉世興がそれぞれ一方面を守り大戦数十合、金兵を大敗させた。金帥完顔訛可が数万の歩騎で城に迫ると、扈再興と孟宗政はこれを濠を半分渡らせてから撃った。守壩の兵が偽って走り金軍が壩を争うと急撃、多くが水に落ちた。金は対楼・鵝車・革洞を作り濠水を運んで土石で城下を埋めようとしたが、扈再興は死士を募って鉄面具を著け氈を披て陣を列べて待ち、金軍は策の施しようがなく退いた。金軍は旗甲・輜重を野に満たすほど遺棄し、范家荘での大戦で扈再興が破って泊湖まで追撃、巡検亢師礼・酒都監納蘭福昌を捕らえて降し、壮丁・牛馬を多数獲得した。
- 以後、孟宗政・劉世興と共に日を空けず戦い続け、扈再興は順昌県を破り甲馬三千を奪い、浙川鎮を破って金人三百を殺し馬磴砦まで追い城柵を焼き、護駕騎軍を瀼河で敗って鄧州に入り高頭を破り歩軍五千・騎軍五百を敗走させて積聚を焼いた。高頭に営を張り唐州を攻め三家河に至ると、金の騎軍二千・歩軍七千が出城迎戦したが、これも破り死者は七、八割に及び城下まで追撃した。金将従義が残騎三百を収めて城に奔ったが、扈再興は城門で拒戦し従義を斬った。遂に唐州を包囲し州境を焼き払って帰路を断ち、久長に砦を築いて厳陣で待ち構え、残兵を捜索して副統軍広威将軍衲撻逹を捕らえ、金兵を殲滅した。その後、髑髏を集めて人頭堠を建てた。まもなく病により卒した。子の世逹も名将と称され、官は都統制に至った。