宋史卷四百一 列傳第一百六十 劉爚

地方官としての治績

  • 劉爚、字は晦伯、建陽の人。弟の韜仲と共に朱熹・呂祖謙に学ぶ。乾道八年進士に挙げられ山陽主簿に調任、爚が版籍を正すと吏は姦を容れなかった。饒州録事に調任、通判黄奕が事をもって爚を汚そうとしたが自ら贓に抵る罪で去った。
  • 都大坑冶の耿某が遺骸の暴露を閔れみ浮屠法で水火に葬ろうと議したとき、爚は書を貽し「死者に知あれば禍も惨たるものだ」と述べ、高い丘を選んで叢冢として塟るよう求めた。連城令に調任、添給銭・綱運例銭を罷し上供銀銭及び綱本二税・甲葉鈔塩・軍期米等の銭を免じ、学校を大いに修し経界を行うよう乞う。閩県知事に改まり清簡をもって治め庭に滞訟なく、利を興し害を去りなさぬことはなかった。

偽学禁下の隠棲と復官

  • 潭州通判に差せられるも赴任前に父の喪に遭う。偽学の禁が興り、爚は熹に従い武夷山で講道読書し怡然として自適、雲荘山房を築いて終老隠居の計とした。贑州坑冶司主管文字に調任、徳慶府知事に差され学校を大いに修し便民五事を奏し、二県の無名租銭を罷し武勇民兵を紏集した。
  • 入奏して、前者の北伐の役で執事者が事勢を度らず陛下に憂いを貽したこと、今和議に従っているとはいえ言路を広く開き公道を張って人材を進めることを願った。広東常平提挙となり、守臣に毎年半分を薪と易え春未支及冬には残りの半分を存して緩急に備えるよう命じた。逋欠亭戸銭十万・転運司五万を、爚は公使公用二庫の贏銭で補った。義倉の弊・客丁銭の弊・小官奉給の弊・留守令の弊・吏商の弊を奏す。

提刑・国子祭酒としての活躍

  • 入奏し、公道が明らかならば人心は自ら一つとなり朝廷は自ら尊くなり危くとも安んじられるが、公道が廃れれば人心は自ら二つに分かれ朝廷は自ら軽くなり安くとも危くなると論じた。帝は嘉奨。尚左郎官に遷り、内外の冗費を節し楮幣を収めるよう請う。転対で経筵講読で大臣が反復問難して義理の当否と政事の得失を求めれば聖学が進み治道が隆んになると論じ、人材を収拾し軍政を修明することを乞う。
  • 浙西提点刑獄に遷り寒暑を厭わず巡按し多く平反した。ある殺人犯が権家に匿われ吏が敢えて捕らえられなかったとき、爚は遂にこれを獲た。国子司業に遷り丞相史彌遠に朱熹の『論語』『中庸』『大学』『孟子』の説を用いて勧講に備え君を正し国を定め天下の学士大夫の心を慰めるべきと言上した。
  • 奏して、宋興り六経の微旨・孔孟の遺言が千載の後に発明され、父に事えるに孝、君に事えるに忠をもってするのが世にいう道学であるが、慶元以来権佞が国を当り已と議を異にする者を憎み道を偽とみなしその人を屏け書を禁じたため学者は依るところなく郷義の利が明らかにならず趨向は汚下し人欲が横流し廉恥が日ごとに喪われた、前日の道学禁絶の事はその咎を任ぜざるを得ない、既に仕えた後に職業を修め名節を立てられないことがあろうかと述べ、偽学の詔を罷して邪説を息め人心を正すことを乞う。

朱熹学の顕彰と経済政策

  • また熹の『白鹿洞規』を太学に頒示し熹の『四書集注』を刊行するよう請う。浙西根本の地には長吏監司に強暴を禁戢させ善良を撫柔させ積蓄で凶荒に備えるべきこと、科斂を禁じて民力を紓めるべきことを言う。国史院編修官・実録院検討官を兼ね金使を盱眙軍で接伴した後、両淮の地は江南の藩蔽であり干戈盗賊の後には経理を加えるべきで招集流散の中で足食足兵の計を為すべきと言う。
  • 淮東は平博膏腴で陂沢水泉の利があるのに荒蕪が実に多く、その民は勁悍勇敢で辺鄙戦闘の事に習うが安集する者が少ないため、郊野を経画して散亡を招集し頃畝を約して田を授け広占抛荒の患のないようにし、溝洫を列して水を儲え戎馬馳突の虞にも備え、田器を貸し種糧を給し険易に応じて聚めて室廬とし相い保護させ、什伍で編成して撃刺を教え相い紏率させ、鄉を一団、里を一隊とし長・副を立て、平居は耕し警あれば守り余力あれば戦うようにすべきと具体的に献策した。帝はこれを嘉納。

兵部・刑部侍郎としての諫言

  • 国子祭酒に進み侍立脩注官を兼ね貢挙五弊を論ず。権兵部侍郎を兼ね権刑部侍郎に改め、建陽県開国男に封じられ食邑を賜る。権刑部侍郎兼国子祭酒兼太子左諭徳に転じ、同修国史実録院同修撰に昇る。廷臣が容黙を務め論事がやや切なる者は輙ち異とされたとき、爚は明詔で大臣に忠讜を崇奨し士気を作興し諛佞を深く戒め具僚を粛正すべきと奏した。
  • 州県獄官を選ぶよう乞う。冬雷に上が恐懼したとき、爚は監司を遴選し貪吏の考察を先とすべきこと、民瘼で未だ下されていない澤や便でない令があれば実を上げ変じて通ずれば民心悦び天意解けようと奏した。辺の諸将を選ぶよう請う。工部侍郎を兼ね、辺の民に鄉で什伍を組み教閲させ急あれば救援し無事なら耕稼を自若とさせるべきと乞い、軍政を田里の間に隠然と寓すのはこれ一時の利にとどまらないと述べた。城を辺郡に築き、賀正使を罷遣するよう請う。

試刑部侍郎としての最終奏疏

  • 試刑部侍郎兼職依旧に任じられ、対衣・金帯を賜り辞退も許されず、二度致仕を請うも許されず、金人への嵗幣を絶つよう奏し歴陽に制置司を建てて両淮を援けさせる。夏旱に応詔して封事を上げ、言語がまさに塞がれているのを導いて言わせ、人心がまさに鬱しているのを疏じて通わせるべし、上が既に不諱の門を開いた以上下には必ず尽言の士がいなければならず、政事の欠失・朝廷の是非を陳べる者を好名要譽と考えて陛下がこれを聴かなければ苦言の薬という実を陛下は棄ててしまうことになり、甘言の疾・華言の腴を陛下が受けて覚らないことになると述べた。
  • 瑞慶聖節を罷し金使を謝絶するよう乞う。子爵に進封され工部尚書を権し衣帯・鞍馬を賜り太子右庶子を兼ね左諭徳もそのまま兼ねた。講読のたびに経史に陳べられた声色嗜欲の戒めに懇切に再三敷陳した。『詩』の説を進読すると詹事戴溪はこれを読んで舌を吐いた。卒後、光禄大夫を贈られ官はその後まで及び、諡は文簡。著書に『奏議』『史藁』『経筵故事』『東宮詩解』『礼記解』『講堂故事』『雲荘外藁』がある。