出自と江陵尉時代
- 劉宰、字は平国、金壇の人。弱冠にて郷校に入り卓然として去就取捨を苟しくしなかった。紹熙元年進士に挙げられ江陵尉に調任。江陵の巫風が盛んであったため、宰は保伍互いに紏察させる令を下し、しばしば業を改めて農となる者が出た。
- 干魃の年、帥守が振荒を命じられ邑境の多くが全活した。真武法を号する妖術者・穿雲子・宝華主なる者を皆禁絶した。座右に「軽々しく文引を出すな、軽々しく箠楚を事とするな」と書いた。事のため郊に出るときも吏卒と共に疏食水飲し、去官する際は篋に主簿趙師秀との酬倡詩を蔵するのみであった。
真州司法時代の逸話
- 真州司法に調任。詔で仕える者は偽学でなければ周惇頥・程頥らの書を読まないよう定められ、試験に才を得られるようになったとき、宰は喟然として「平生学んだのはこれらの書だ、我が首は断ってよいがこの状には応じられない」と言い、卒に与しなかった。
- 泰興令を授かる。ある殺人獄が発生し、叢祠に禱ったところ刃が忽ち三度躍り三人を殺した、これは神が私を殺したのだと訴えられたが、宰は州にこれを請いその廟を毁ち首を斬って狥した。隣邑に租牛が縣境にあり、租戸が主と連姻していたが喪に乗じて劵を竊んで逃げた。他日主の子が租を征すると牛はすでに久しく売却したと言われ、数年訟えても劵がなく官も異縣ゆえに置いて問わなかった。宰に訴えると「牛が失われて十年、どうして一旦復せられようか」と言い、二人の乞食者を召して勞い、故に他事を託して繋獄し鞫すると乞食者は自ら牛を盗んで売ったと詭り、租戸のところへ確認に行かせると「私の牛はある氏から租した」と言い、乞食者はますます力んで言い立て劵を出させ相い持って牛と租を主に帰した。
- 富室が金釵を亡くし二人の婢が疑われ冤とみなされた際、宰は各々一本の蘆を持たせ「盗んでいない者の蘆は明朝そのままだが、盗んだ者は今より二寸長くなる」と命じ、翌朝見ると一本はそのままで一本は蘆が二寸短くなっており、訊すと果たしてその罪に伏した。姑が婦を不義と訴えたとき、二人の婦と姑を一室に召し、あるいは婦に食を与え姑に与えないようにして様子を伺うと、一方の婦は自分の饌を姑に饋ったが姑は依然として叱り、もう一方は逆であることが数日続き、その情を得た。
韓侂胄の北伐への反対
- 父の喪を終えて京に至ったとき、韓侂胄が用兵を謀っており、宰は鄧友龍・薛叔似に軽々しく兵端を挑くことは国家の深害であると極言した。浙東倉司幹官となり職事を修挙し、まもなく引退。時変を黙観し全く仕えたくなくなり、まもなく告げて帰り南岳廟を監す。江淮制置使黄度が幕に辟しても、宰は「君命が召しても行かなかったのに、今なおどうして出られようか」と辞退した。
- 嘉定四年、堂審の召命が再度下っても至らず、時の宰相もしばしば執政従官を諷して書を寄せ宰を挽したが、宰は峻烈に辞して絶ち、考功歴を題して仕えないことを決した旨を示した。
晩年の隠居と善行
- 理宗即位の初め籍田令に任じられ辞退を重ねる。添差通判建康府に改まってまた辞し、致仕を乞うと直秘閣・主管仙都観を得、改秩・予祠の命を辞するも許されず。端平元年、直宝謨閣に昇り祠はそのまま、磨勘の歳月もすべて還した。まもなく太常丞に遷り、郡守が朝命により促したためやむを得ず就道したが、呉門に至り疏を拝して真っ直ぐ帰った。
- 一時、名声の高い者を召し尽くそうとする中で、致すことができなかったのは宰と崔与之のみであった。帝は侍御史王遂に問い且宣撫させようとし、将作少監に遷り直敷文閣・寧国府知事にも及んだが皆拝さなかった。直顕謨閣・玉局観主管に進み、帝はなお宰が来ることを望んでいた。奏事に召したが遂に起たず卒去。郷人は市を罷めて走り送り、絹相属く者五十里に及び、人々は私親の喪のごとく哭した。
- 宰は剛大正直・明敏仁恕で郷邦に恵みを施し、その功績は多い。義倉を置き義役を創設し、三度粥を作って饑者に施し冬から夏にかけ毎日万余人に食させた。薪粟・衣纊・薬餌・棺衾の類も謁を待たず得られない者はなかった。田がない者、廬がない者、子女が長じても未婚嫁の者がいれば汲汲として自ら経理し実任した。橋の病渉や路の険阻があれば巨役を厭わず自ら倡え事を進めた。
- 宰は生理素より薄く、義を見ればこれを必ず為し、力を竭くし尽くしても質貸を借りて継いだ。麦銭の額を定め県の斗斛を制の通りに直し、淫祠八十四所を毀ち、有司に白して郷人に利あることはすべて行った。宰は三十年間隠居し平生嗜好なく、ただ書に至ってはあらゆるものを読み、日力を竭くしても座して待ち続けた。訓注を博く考えても自得を貴んだ。著書に『漫塘文集』『語録』があり世に行われる。