出自と学問の伝承
- 吴柔勝、字は勝之、宣州の人。幼くして父が伊洛の書を講ずるのを聞き、すでに敬を持する学があることを知り、妄りに言笑しなかった。郡泮に長く逰び、人は皆その方厳を憚った。淳熙八年進士第に登り都昌簿に調任。
- 丞相趙汝愚がその賢を知り嘉興府学教授に差し、館閣に置こうとしていた矢先、汝愚が去ると御史湯碩が柔勝はかつて荒を浙右で救う際、田租を擅に放って汝愚のために人心を収めたこと、朱熹の学を主として師儒官たるべきでないことを弾劾し、これより閑居すること十余年に及んだ。
- 嘉定初年、刑工部架閣文字を主管、国子正に遷り、柔勝は朱熹の四書を諸生に誦習させ講義策問はすべてこれを先とし、生徒の中から潘時挙・呂喬年を見出し長官に白して職事に抜擢、文行をもって表率とした。これにより士は伊洛の学に趨向を知り、晦(隠れていたもの)は再び明らかになった。
随州知事としての防衛と荒政
- 太学博士、司農寺丞に遷り、随州知事に出る。当時、和好を再び議していたため辺境で事を興すことを戒め、傍らの境で北界との紛争が起きても、法の軽重を問わず皆殺されていた。郡民梁皋の馬が北人に盗まれ追跡すると北人が矢で拒み、皋とその徒も二矢を発したことが北界の言い分となり、郡は七人を獄に下したが、柔勝が至って械を破って縦し、事の顛末を北界に報告して収まった。
- 土豪孟宗政・扈再興を帳下に収め、後に二人はともに名将となった。随州・棗陽城を築き、四方の亡命を招いて千人を得、軍を「忠勇」と名付け闕額分の廩を給し、営柵・器械を備えた。京西提刑に除せられ州の職はそのまま兼ね、湖北運判に改まる。
鄂州知事と晩年
- 鄂州知事を兼ねると歳凶に値い、湖広に糴を乞い大いに荒政を講じ、十五州の被災の民で全活した者は数え切れなかった。太平州知事に改まり、直秘閣に除せられ亳州眀道宮を主管、直華文閣に改まり工部郎中に除せられたが力辞し秘閣修撰に改め宮観のまま卒去。諡は正肅。二子の淵・潜はいずれも進士に登り、それぞれ別に伝がある。