宋史卷四百 列傳第一百五十九 游仲鴻

游仲鴻、字は子正。果之南充の人。淳熙二年の進士。四川制置司幹辦公事として趙汝愚に重用され、その腹心として孝宗崩御時の危機に助言した。韓侂胄との対立や呉曦の乱に翻弄されながらも忠節を貫いた。子の游似は後に右丞相となった。

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出自と蜀での活躍

  • 游仲鴻、字は子正、果之南充の人。淳熙二年進士第、初め犍為簿に調任、李昌図が蜀賦を総べていたとき糴買を辟し、その才を「私は餉を董すること積年だが唯一の逸材を得た」と評し召して首に薦めた。四川制置司幹辦公事に抜擢され、制置使趙汝愚は一見してその才を敬した。
  • 叙州の董蛮が犍為境を犯したとき憲将が合兵で討とうとした際、仲鴻は行くことを請い、その釁端を詰ると州が馬の代価を負っていたことが原因とわかり、蛮を諭して「俘虜を返せば馬の代価を返す、さもなくば大兵が至る」と言うと蛮は命に聴き、仲鴻はその降を受けて帰った。
  • 秩を改め中江県知事、総領楊輔が幕下に辟した際、関外の営田が凡そ一万四千頃畝あるのに輸税がわずか七升であったため、仲鴻は淘汰すべき兵に田を授け赤籍を存し数年遅らせれば淘汰される者が多く耕す者も増え横斂の一切の賦を次第に減らせると建議し、楊輔は然りとしたが大将呉挺が沮んで止めさせた。

趙汝愚との関係と孝宗崩御時の建言

  • 趙汝愚が閩帥に移る際、仲鴻を自代に挙げ、制置使京鏜・転運劉光祖も朝廷に交々薦めた。紹興四年、召に応じて朝廷に赴くと、汝愚は枢密にあって仲鴻を直諒多聞として蜀中の利病を訪ねた。汝愚が自ら西事を経略に出ようとしたとき、仲鴻は「宥密(枢密)の地は斡旋する者が易い、公は呂申公が西事を経略した際『朝廷にあるべし』との語を聞いていないのか」と述べ、汝愚は悟って止めた。
  • 幹辦諸司糧料院に差せられ、光宗が疾のため久しく重華宮に朝せず、仲鴻は汝愚に書を遺し宗社の大計を陳べ、伊尹・周公・霍光の語をもって述べた。汝愚はこれを読んで驚き燬して答えなかった。さらに書を遺し「大臣が君に事える道は、社稷に利あらば死生をもってこれに当たる、既に死なざる以上どうして去らないのか」と述べたが汝愚は答えなかった。
  • 孝宗崩御のとき、仲鴻は泣いて汝愚に「今はただ百官を率いて殿庭に哭して親臨を請うほかない」と言い、宰相留正が病で去ると仲鴻は汝愚に簡を送り「禫日(喪の終わりの祭日)が決せられなければ禍が起こる」と急いだが汝愚はまた答えなかった。三日後、嘉王が重華宮で即位し、汝愚は右丞相を拝したが、仲鴻が久しくその門に游んだために嫌を避け用いなかった。

韓侂胄との対立と党禁

  • 汝愚が策を定めた当初、知閤韓侂胄は勲があると自負し節鉞を望んだが汝愚は与えなかったため、侂胄が禁中で用事し恚みが甚だしかった。汝愚は身の危機を悟って益々自ら厳重にし、選人が見えを求めても許さなかったが、仲鴻は意を降して容れ接し異論を遏めるよう勧めた。
  • 汝愚が淮東西の総賦の積弊を奏して仲鴻に実を覈させようとしたとき、仲鴻は「丞相の勢いは既に孤立している、これを憂えず彼を憂うるのか」と言った。監登聞鼓院に改まって赴任する矢先、侍講朱熹が論事のため去国し、仲鴻はこれを聞いて即座に上疏し、陛下が服喪中に御批が中書を経ずに数出していること、宰相留正・諫官黄度・近臣朱熹の去は皆礼を尽くさず正を尽くさず道を尽くしていないと述べ、宰相・諫官・講官を舎てて自ら聡明を為せる者はいないと論じ、朱熹の召還を急ぐよう願った。
  • 監察御史胡紘が侂胄の意を希って汝愚を「久しく邪心を蓄え、人に乗龍授鼎の夢を語り、朝士の中に椘王元佐の正統を継ぐ宗派を推す者がいる」と誣告し、仲鴻を指したものであった。当初、胡紘は仲鴻の名を直書しようとしたが、同台の張孝伯が「名を書けば竄せられる、宰相に阿附する者は概ね官爵を冀むものだが、この人は六院に沈埋して既に二年になる、心跡は察するに値する」と言い、遂に名は書かれなかった。

呉曦の乱と晩年

  • 慶元元年、汝愚が罷相すると、仲鴻は軍器監主簿に遷るが外任を力めて乞い洋州知事となる。朱熹はこれを聞いて「蜀士に竒才が多いことよ」と言った。三年後、嘉定府知事に起用され、利路転運判官に抜擢されたが宣撫副使呉曦にしばしば逆らったため、曦は仲鴻を老病として朝命により他部に易えさせたが、まもなく曦が叛いた。
  • 宣撫司幕官薛紱が果山に仲鴻を訪ねると、仲鴻は泣いて案上の一編の書を示し「開禧丁夘正月、游某死す。曦が私を死に追いやったのだ」と家人に告げるつもりでその日時を記していたことを語った。宣撫大使程松がすでに師を棄てて逃げていたため、仲鴻は書をもって成都帥楊輔に賊討伐を勧めたが輔は用いず、この時松が果山に至ったため、仲鴻は薛紱に「宣威(程松)が留まりたければ、私の積んだ俸禄二万緡をもって兵を犒い宣威を成都まで護送しよう」と言ったが、松は顧みず去った。
  • 総賦劉崇之が続けて至り、仲鴻は子の似を遣わして程松に告げた話を伝えたが崇之もまた聴かなかった。まもなく曦が誅され、参政李璧の奏で利路提点刑獄に除せられ、休致を乞い祠を得て帰った。中奉大夫に遷り嘉定八年に卒去、年七十八。劉光祖はその墓道に「ああ慶元党人游公の墓」と表した。紹定五年「忠」の諡を賜る。子の游似は淳祐五年に右丞相となり、この伝とは別に列伝がある。