太祖の子孫を立てるべしとする建議
- 婁寅亮、字は陟明、永嘉の人。政和二年進士、上虞丞となる。建炎四年、高宗が越に至ったとき、寅亮は上疏し「先正の言に太祖はその子を舎てて弟に位を伝えた、これは天下の大公である」「周王が夢に章聖から宗室を宮中で育てるよう告げられたことは天下の大慮である」と述べ、仁宗が感悟してその説に従い英祖(英宗)を入継させた文子文孫が宜しく君王たるべきとした。
- 天下を保つ者は陛下ただ一人であり、椒寝(後宮)は未だ繁からず前星(皇太子)は輝かず、孤立無助であることに識者は寒心すると述べ、崇寧以来佞臣が濮王の子孫のみを近属とし他は皆同姓と呼んだため、昌陵(太祖)の後は寂寥として民庶に等しくなっていることを憂い、太祖に近い賢徳のある子孫を親王の秩に視て九州を治めさせ皇嗣誕生を待つべきこと、宣祖・太宗の裔で才武の者を南班に昇せて環衛に備えるべきことを乞うた。帝は読んで感悟し、枢密富直柔がこれを推薦した。
紹興元年の再上疏と失脚
- 紹興元年に行在に召され、入見後、再び上疏して陛下が六年間外を巡行し険阻艱難を尽く経験したが二聖(徽宗・欽宗)は未だ還らず金人は未だ滅びず四方は未だ静まらないのはなぜかと問い、天意は太祖がその子を私せず保った徳を宋に授け、姦邪が国を誤って壊したため、嗣聖に祖を念い危を思わせてからそれを得させようとしているのだと論じた。
- 昨年、太祖の賢孫を親王の秩に視て九州を牧させるよう請うたところ誤って採聴され赦されて誅されなかったのは、天の霊が発悟し聖心が社稷のために計ったからであり、愚臣の及ぶところではないと述べ、大臣に宣告して実行すべきこと、皇子誕生の暁には清暇に退かせて節度使一階を増すに過ぎなくすべきことを求めた。
- 令によって官に入り監察御史に抜擢されたが、時の宰相秦檜は富直柔の推薦した者として憎み、言者を諷して寅亮が父の喪を匿していたことを弾劾させた。大理に下して鞫問したが実がなく、なお族父の官戸冒占の罪に坐して罷職・吏部送りとなり、これにより坐して廃された。