宋史卷三百九十九 列傳第一百五十八 髙登

太学生時代の上書

  • 髙登、字は彦先、漳浦の人。少くして孤児となり力学し、身を持するに法度をもってした。宣和年間に太学生となる。
  • 金人が京師を犯すと、髙登は陳東らと共に六賊を斬るよう上書し、廷臣が和議を再び唱えて种師道・李綱の兵権を奪おうとしたとき、東と再び上書を抱いて闕に赴き、期せずして数万の軍民が集まった。王時雍が兵を放って皆殺しにしようとしたが、髙登は十人と共に屹立して動じなかった。

欽宗即位後の連続上書

  • 欽宗即位後、呉敏・張邦昌が相となり、敏は前相李邦彦の無辜を雪いで起復させようとしたとき、髙登は上書し、陛下が東宮より即位した時には民のため大利害を興除するはずと期待していたが、践祚の始めに兵革擾攘し朝廷政事に一切暇なく、人々が足を挙げて維新の政を待望しているのに呉敏・張邦昌を相とし、敏党の言を容れて李邦彦を再用しようとしていることは天下の望みを失うものであり、人心はこれより離れると論じた。
  • また、太上皇が久しく李邦彦らを政府に置いたため紀綱が紊乱し民庶が愁怨した末に大禍を招き倉皇として南幸せざるを得なくなった、主辱臣死すべきこの徒は誅に伏すべきなのに今なお恣に朋比姦を為し天日を蔽い、陛下が呉敏の請いに従えば天下の人は陛下を不明の君とみなし人心は離れると論じた。
  • 再び上書し、布衣の微賤な自分の言でも宗社の存亡に関わるゆえ忽せにできないと述べ、五度にわたり上書したがすべて報われなかった。南帰を謀っていたところ張邦昌一党が次々と罷斥され、髙登の言と偶合する者が十中七、八に及んだため、「これで存分に言える」と喜び、再び呉敏がまだ罷免されていないことを論じたがまた報われなかった。

京師陥落後の逃亡と紹興初年の官途

  • 金人が京師に至ったとき六館の諸生が逃げようとしたが、髙登は「君がいるのにどうして逃げられるか」と林邁らと共に随駕を請い聶山の帳中に隷したが、帝は出なかった。金人が退いた後、呉敏は学官を諷して罷斥・帰郷を仕向けた。
  • 紹興二年、廷対で意を尽くし直言して憚らなかったため、有司にその直言を憎まれ富川主簿に授けられた。憲司の董弅がその名を聞いて六郡の獄を讞せしめ、賀州学事を兼命した。

地方官としての治績

  • 賀州の学には旧来田舎法があったが買馬司に罷収されていたため、髙登は復旧を請う。守が「買馬と養士、どちらが急務か」と問うと、髙登は「買馬は確かに急だが学校礼義はそこから出る、一日でも廃すれば衣冠の士も堂下の卒と何ら変わらなくなる」と答え、守が「長吏に逆らうのか」と言うと、天下が頼るのは礼義と法度であると答え、守はこれを覆せず従った。
  • 獄事を代行中、殺人囚を守が奏裁しようとすると「陰徳とすべし」と言い、髙登は「陰徳は有心で為すべきものではない、殺人者を死なせず幸いにも免れさせれば、殺された者の冤は晴らされない」と反対した。
  • 任期満了時、士民が挽留を乞い五十万の金を集めたが姓名を告げずに守に「髙君は貧しくて養う術がない、太守が皆に受けるよう勧めてほしい」と言った。髙登は辞退しきれず、学に置いて書を買い士民に応えた。

広州での荒政

  • 広州に帰る途中、新興で大飢饉に遭遇し、帥連南夫が廩を発いて振済するのを助け、野に糜(粥)を作って施した。願う者に貸し与え、全活する者数万を数え、稔年になるとその返済も数に及んだ。留まりたいと訴える者数百人がいたため任期延長を奏請、都堂に召されて審察を受け、万言の上疏と時議六篇を上呈した。帝はこれを覧て善しとし六議を中書に下したが、秦檜はその譏りを憎み上聞から遠ざけた。

静江府古県令時代の治績と対立

  • 静江府古県令に授けられ、湖州守汪藻の館に留まり徽宗実録の修纂を手伝うよう請われたが固辞。ある人が改秩の機会になると言ったが、髙登は「意が未だそこにない」と述べて赴任した。
  • 広西帥沈晦が県治について問うと髙登は十余の事を条陳し、晦は「これは古人の政で今人は詐り疑って行いがたい」と言ったが、髙登は「忠信は蛮貊にも行える、行えないというのは誠が至らないだけだ」と答えた。
  • 豪民秦琥は郷曲を武断し秦大蟲と称され、邑の長官以下がその力に屈していたが、髙登の赴任後は多く改まった。ある日、秦琥が請託して拒絶されると怒って危法で陥れようとしたが、逆に学銭を侵貸したとの訴えが出て、髙登は面詰して法に処し、一郡が快とした。
  • 帥胡舜陟が「古県は秦太師(秦檜)の父の旧治で太師をここで生んだ、祠を建てるべきだ」と言うと、髙登は「檜が相となり無状である、祠は立てられない」と拒否した。舜陟は激怒し秦琥の事を取り上げて髙登を荔浦丞に移し康寧に代えさせた。髙登は母の病で去り、舜陟は檜の祠を創建し自ら記を書き、髙登を専殺の罪で誣告し、静江府の獄に送るよう詔された。

投獄と赦免

  • 舜陟が健卒を遣わして髙登を捕らえようとしたところ、母が舟中で死に藁葬して水辺に埋め、海路で京師に赴いて官を納めて贖罪を求める上書をした。帝はこれを憐れんだ。ある知人が「丞相(秦檜)はかつて君と大学で会ったことを知っており一目見れば無事だ、上書は無用だ」と言ったが、髙登は「私は君父を知るのみで権臣を知らない」と答えた。中書は納官贖罪の前例がないとして静江獄に送るよう奏したが、髙登は母の葬儀を終えて獄に赴いた時、舜陟が先に別件で下獄して死んでいたため事は昭白された。
  • 広漕鄭鬲・趙不棄の推挙により歸善令を代行し、考試を差配、経史の要語を出題して閩浙の水害の由来を策問とした。郡守季仲文がこれを馳せて秦檜に報告すると檜は激怒し、前事に坐して勅旨により容州漳州に編管させられた。

謝大作の忠義と晩年

  • 使臣謝大作が省符を持って髙登に示すと、髙登は読み終えてすぐ大作を馬に乗せた。大作は「少し家人に告げてから行っても害はない」と言ったが、髙登は「君命は稽らせられない」と答えた。大作は感じ入った。
  • 夜、廵検が百卒を率いて再び来たとき、髙登は「もし朝廷が私に死を賜るなら勅を拝してから法に就くべきだ」と言い、大作は感涙して剣を奮って廵検を叱り「省符は私の手中にある、それ以外の話はない、汝は何をしたいのか、私は死をもってこれを守る」と言った。鄭鬲も一官を鐫られる坐に処せられた。
  • 髙登は謫居して弟子を教えて家事を給し、一切意に介さなかった。ただ朝廷の政に小さな失があれば顰蹙して楽しまず、大きな失には慟哭したという。臨終の言はすべて天下の大計であった。二十年後、丞相梁克家がその事を疏して奏上。何万が漳州守のとき朝廷に迪功郎への追復を言上、さらに五十年後朱熹が守となり承務郎の追贈を奏請した。
  • 髙登は母への孝行が至り、舟行中封康の間で風に阻まれ朝食を奉ずる術がないと嘆じたところ、白魚が躍り出たという。学は慎独を本とし、著書に家論・忠辨等の篇があり、『東溪集』が世に行われている。