宋史卷三百九十六 列傳第一百五十五 權邦彦

權邦彦は字を朝美といい、河間の人。金軍の南侵時は東平府で力戦したのち囲みを突いて脱出し、のち兵部尚書・端明殿学士簽書樞密院事を務めた。中興の十議を上疏したことで知られる。紹興3年(1133年)卒。

年表(7件)

経歴

  • 權邦彦は字を朝美といい、河間の人。崇寧4年(1105年)太学上舎第、滄州教授に調せられ入って太学博士、宣教郎に改まり国子司業に除せられる。宣和2年(1120年)遼への使を務め、翌年帝の臨雍を請う表を抗した。学官として10余年積み、都官郎中直祕閣知易州に改まり相州に移り、都官郎中に再召される。王黼と議合わず職を鎮められ冀州知事となる。
  • 金人が再び侵攻した際、高宗の大元帥府が両河の兵を起こし汴京を衛る中、邦彦は所部の兵2500人を率い宗澤と共に澶淵から韋城に趨き刀馬河を拠点としたが、他の道の兵は進まず、たまたま敵の大軍が至り南華に屯を移した。二帝北遷後、邦彦は澤と共に5度勧進の表を上げ、建炎元年(1127年)5月、荊南府知事召還を命じられ東平府に改められた。時に東州は既に半ば金に入っており、この頃さらに包囲が急を告げたが、邦彦は死を誓って守り数月持ちこたえたが城は陥落、なお力戦を続け、民はその義に従い共に囲みを突いて出て行在に奔った。有司は失守の罪を重く問おうとしたが、父母妻子が皆敵中で没していたため二秩の降格に留まり、まもなく寶文閣直学士兼江州知事本路制置使に除せられた。
  • 鎮に赴いてから2年目の冬、父の死を聞き解官。4年、起復し建康府知事となるが辞するも許されず、劇盗張琪が徽州を残虐した際、邦彦は禆将を遣わしこれを平定した。江淮等路制置発運使に改まり、治辦を以て称された。言者が「三年の喪は天下の通喪、後世に権により起復服喪する者は国家の急に殉じるためだ、近年の権邦彦・美仲謙らのように幕職の身にまで起復が慣習化しているのは、ほとんど宣政の風が習わされたようだ、その弊を革め人倫を明らかにし風俗を厚くすべき」と論じたことにより、詔で邦彦は軍賦の任のみ旧に従うことを許され他は皆罷められた。
  • 紹興元年(1131年)兵部尚書兼侍讀召還、3年端明殿学士簽書樞密院事に除せられる。邦彦は初め十議を献じて中興の図を述べた。大略は「天下を度として洪業を進め図り土宇を恢復すべき、東南に苟安すべきでない。諸将を駕御するには法をもって威とし爵命をもって限るべき。講讀の臣は累朝の訓典と三代漢唐の中興故事を取り日々前に陳ずべし、聖学を禆けるため。傷善妨賢の讒言、偷安苟容の佞、市恩立威の姦、懐諼罔上の欺を監察し、その言を聴きその事を察すれば忠邪は判る。愛民はまずその力を愛しみ、寛民はまずその用を節すべき、己を朘り奉を佐国に充てることは執政から始めるべき。分閫は偏禆の能くするところでなく必ず賢臣大将を得るべき。制置一官は省くべきで、沿江州県は各々境内の総を備え漕帥に委ね、荊鄂江池から采石京口まで得人を任じるべき。防秋の策として宗室の中に傑然として人望あり艱難を済せる者がいれば密勿に贊けさせ宿衛に留めるべき。人事を尽くせば天も禍を悔いる、これを独り数に帰すべきでない」。
  • 呂頤浩は素より邦彦と善く登用に薦めた。給事中程瑀が邦彦の五罪を弾劾したが三度の疏はいずれも報われなかった。邦彦は樞密にあってまた「機に乗ずべきは奕の争先に譬えられる、随って応じ随って解くべき、人を制することなく人に制せられるべきでない」と論じた。まもなく参知政事権を兼ねる。帝が輔臣に湖南事を語った際、頤浩は李綱の縦暴で潭州の治状が不善であると述べ、帝「綱は宣和間に水災を論じて時望を得た」邦彦「綱にはもとより章疏がない、ただ虚名に過ぎない」(頤浩を助けて綱を排したと評される)。3年(1133年)卒。邦彦は政に与ること約1年、碌碌として建樹なく充位したに過ぎないと評される。子がなく甥の衍を後嗣とした。遺稿10巻『瀛海残編』が家に蔵された。