宋史卷三百九十六 列傳第一百五十五 趙雄

趙雄は字を温叔といい、資州の人。孝宗に重用され金との交渉で恢復の議論を陳じ、辺境の実務に当たった。のち右丞相を務めたが、張栻を沮んだとも評される。紹熙4年(1193年)薨、享年65、「文定」と諡された。

年表(5件)

経歴

  • 趙雄は字を温叔といい、資州の人。隆興元年類省試第一。虞允文が四蜀を宣撫した際、幹辦公事に辟され朝に薦められ相となった。乾道5年(1169年)召見便殿、孝宗は大いにこれを竒とし即日手詔で正字に除した。范成大が金へ使する将にあたり允文が招いて語らせると、雄は登対して恢復を極論、孝宗は大いに喜び「功名を卿と共にせん」と即日右史に除し、二月で舎人に。
  • 金使耶律子敬が会慶節に来た際、雄が館伴となり子敬が事情を披露するのを聞き邏者がそれを聞き、上が夜に雄を召すと雄は詳しく報告した。上が喜んだ。金使の辞去時に例では用楽であったが、雄は「郊祀が近く天子が斎の最中で楽は使えない」と奏し、上が難色を示し中使を遣わし雄に諭したが、雄は「金使は必ず不順にはできない」と言い、他の臣を引き就館させた。上は大いに喜び、雄は恢復局の再置を請い日夜条具を講磨し上意に叶った。中書舎人に除せられ、選人から館職を経てここに至るまで一年に満たなかった。
  • 金が河南の役を起こす議があり、諸陵梓宮を悉く我らに帰す議があった際、上は雄を出して賀生辰使とし陵寝の奉遷と正受書儀のみに止めた。雄は金主に会い争弁を数四繰り返し、金臣がたびたび制止しようとしたが雄の言はますます力を増し、遂に望みを得た。金人はこれを「龍闘」と称した。恢復計の大略(蜀から陝西を取り中原に臨む、秦が六国を制した勢と同じ)を上疏した。8年、母の憂により去る。淳熙2年(1175年)召されて礼部侍郎、端明殿学士簽書樞密院事に除せられる。
  • ある日の奏事で上「今夏の蚕麦は豊作、絲米の価も安く喜ばしい」に対し雄「孟子は王道の始まりを『不飢不寒』と論じた」上「近世士大夫は高論を好み農事を語るのを恥じる、いささか西晋の風がある。周礼や易に理財を語る事があり、周公・孔子も理財を務めとしなかったことはない、士大夫ばかりでなく恢復を語ることも忌む、自らの家に田百畝あり内50畝を人に占拠されたら牒を投じて理索するかしないか」雄「陛下の志は大有為にあり、あえて堯言を布くよう時政記に書きます」。11月同知樞密院事、5年3月参知政事、11月右丞相に拝され「二帝は沙漠にあり」との言を進見のたびに口にしない日はなかった。朱熹が累々召しても出ないことに対し、雄は外郡に出すべきと請い南康軍知事とした。熹の時事への極論に上が怒り雄に分析させると、雄は「熹は狂生で詞窮理短、罪すれば名を成すだけ、天涵地育のごとく置いて問わずともよい」と奏した。周必大も力めてこれを言い、事は止んだ。
  • 紹興帥張津が羨余40万緡を献じた際、雄は詔で紹興に下してこの銭を民の代納(和買身丁折帛銭の半分)に充てることを乞い、聖王の徳を見せた。雄が独相となって以来、蜀人の在朝者が僅か十数人に及び、寵眷が衰えると私に里党のことを言う者があり上が疑った。陳峴が四川制置、王渥が茶馬に任じられ中から出した命であったため、雄は求去を求め、詔で「丞相は任事に怨みを避けず才を選ぶに郷旧にこだわらない、これはやや激するところがあったのだろう」と勉留された。祖宗時、蜀人は蜀帥に除されたことがなかったが、雄はこの慣例のまま外任を請い観文殿大学士四川制置使に。王藺が御史となり故事にないとして疏論した際、雄は求去し瀘南安撫使に改まったが、上は雄を思い忘れず江陵府知事に改めた。江陵は険なく恃るべきものがなく、雄は請うて城を築き成るに至り民を告り擾さなかった。
  • 張栻が再召された際、恢復を固く論じつつも計は非とすべしと上疏、孝宗は大いに喜び翌日その疏を宣示し「恢復は栻の陳ずるところのようであるべき」と手詔した。侍講に除せられ「かつ直宿の折に卿と事を論じられよう」との言があったが、虞允文と雄の徒はこれを喜ばず沮抑した。広西横山の買馬で諸蛮が感悦し善馬を争って持って来る中、上は栻の治行が甚だ優れているのを知ったが衆は皆嫉妬した。栻が再び荊南に出ると雄は事あるごとに沮んだ。司天が椘地に相星を見た際、上「張栻がこれに当たる」に人はますます忌み嫌った。
  • 光宗が受禅しようとする際、雄が召され、雄は万言書を上げ修身斉家をもって朝廷を正す道を陳じ、言は甚だ剴切であった。寧武軍節度使開府儀同三司に除せられ衛国公に進封、湖北帥に改まり、病が甚だしく資州判、さらに潼川府に除せられ隆興府に改まる。紹熙4年(1193年)薨、享年65、少師を贈られ、嘉定2年(1209年)「文定」と諡された。