経歴
- 程松は字を冬老といい、池州青陽の人、進士第、湖州長興尉に調せられる。章森が呉曦とともに北使した際、松は傔従として従った。慶元中、韓侂胄が用事した頃、松は銭塘県知事として曦に諂事し侂胄と結んだ。侂胄が愛姫を出した際、松はこれを聞き百千で市いて至ると盛大な供帳を設け中堂で夫婦として謹んでもてなした。まもなく侂胄の意が解け姫を再び召すことになった際、姫が松の謹んだもてなしぶりを語ったため侂胄は大喜びし、松を幹辦行在諸軍審計司・太府寺丞に除した。旬を経ずして監察御史に遷り右正言、諫議大夫に擢せられた。
- 呂祖泰が上書して侂胄・蘇師旦の誅殺を求めた際、松は陳(自強)と共にこれを弾劾し祖泰は真決流嶺南の罪に処された。松は満歳の遷任がなく怏怏として一妾を侂胄に献じ「松夀」と名付けた。侂胄がその名を訝ると「疪賤の姓名を常に記憶にとどめていただきたい」と答えた。同知樞密院事に除せられ、宰邑から執政まで僅か4年であった。
- 開禧元年(1205年)資政殿大学士知成都府四川制置使に。侂胄が開辺を決議し翌年4月に分道進兵する際、松は宣撫使興元都統制に、呉曦は副として陝西招撫使加官、便宜従事が許された。松は東軍3万を興元に、曦は西軍6万を河池に駐屯させた。松が益昌に至り執政の礼で庭参を求めると曦は境まで来て引き返した。松は東西軍わずか1800人で自衛したが曦は多くを抽き去っていたことに松は気づかなかった。曦は密かに客を金に遣わし款を通じ関外四州の地を献じて蜀王を求め、告発する者があったが松はその狂に哂った。金が成州を取り守将が関を捨てて逃げ、呉曦は河池を焼いて興州に還った。松は曦に書を送り援兵を求めたが、曦は「鳳州は騎兵向きでない、漢中は平衍で騎馳できる、三千騎を送る」と偽った。まもなく金は曦を蜀王に封じ、曦は松に去ることを促す書を送ったが松は方策を持たなかった。
- 興元帥劉甲・茶馬范仲任が松に会い曦誅殺の計を謀ろうとした際、松は事泄を恐れて二人に対し揖して立ち去った。たまたま金が至るとの報があり百姓が奔走し一城が沸き立つ有様に、松は米倉山へ逃走、閬州から順流して重慶に至り、曦に贐礼を求める書を送り舟を買うため曦を蜀王と称した。曦は使者に匣封の贈り物を送らせたが、松はこれを見て大いに恐れ剣かと疑い逃走、追いつかれ已むを得ず開けてみると金の宝物であった。松はここに兼程で峡を出て西に向かい涙を拭いながら「これで頭顱を保てた」と語った。
- 曦誅殺後、詔で職を落とし三官降格、筠州居住とされ、再び順昌軍節度副使灃州安置に処され、さらに果州団練副使賓州安置に責められ、賓州で死んだ。