宋史卷三百九十五 列傳第一百五十四 王質

王質(字は景文)は孝宗が宰相をしばしば交代させることを批判し和・戦・守を統合する策を説いた論客で、虞允文に「天才」と評されながらも中貴人に憚られて要職に至れなかった。淳熙十五年に卒した。

経歴

  • 王質は字を景文といい、先祖は鄆州人、後に興国に徙る。博く経史に通じ文をよくし、太学で九江の王阮と齊名した(阮は常に「景文が古を論じるのを聴くと酈道元『水経』の名川支川が周匝して間断ないよう、咳唾も皆珠璣となる」と評した)。張孝祥父子と交わり深く器重され、孝祥が中書舎人になった際、質を制科に推薦しようとしたが去国により果たされなかった。歴代の君臣治乱を論じた『朴論』五十篇を著した。紹興30年進士第、大臣の言により館職召試も就かなかった。翌年金主完顔亮が南侵、御史中丞汪澈が荊襄を宣諭、さらに翌年樞密使張浚が江淮を都督、いずれも属官に辟され、太学正に入る。
  • 孝宗が屡々相国を易えたが評価が定まらぬ中、質は上疏した。「陛下即位以来、慨然として時に乗じ為すべき志を起こしながら、陳康伯・葉義問・汪澈が朝廷にいても陛下は皆才と見なさなかった、まず義問を逐い次に澈を逐い、康伯だけは進退を難じつつも陛下は終始これを鄙とし、ついに史浩を用いる決意をしたが浩もまた陛下の意に称わず、そこで張浚を用いる決意をしたが浚もまた成功なく、そこで湯思退を用いる決意をした。今、思退が専ら国政を任されて既に数月、臣が推し量るに終には陛下に益がないだろう。そもそも宰相の任は一つでも称わなければ陛下の志が一つ沮まれる。先日康伯は陛下を和で持し和は成らず、浚は陛下を戦で持し戦は験されず、浚はまた陛下を守で持し守は既に困り、思退はまた陛下を和で持している。陛下は和・戦・守の事を深く察したことがあるか。李牧は鴈門で守を法としたが守すればまた戦があった、祖逖は河南で戦を法としたが戦すればまた和があった、羊祜は襄陽で和を法としたが和すればまた守があった、何を以て分けて相合わせないのか。今、陛下の心志が定まらず規模が立たない中、ある者は陛下に金は弱く亡びかけているから我が兵は甚だ振るうと告げれば陛下は勃然として燕然を勒める志を持ち、ある者は我が力が恃むに足りず金が来ると告げれば陛下は委然として平涼で盟う心を持ち、ある者は我も進めず金も入れないと告げれば陛下はまた蹇然として鴻溝を指す意を持つ。もし臣に陛下のために三者を合わせて一とする謀をさせれば天下は治まらないことがあろうか」。天子は心に質の忠を知ったが忌む者が共に讒し、質は年少で異論を好むとされ罷免された。
  • たまたま虞允文が川陝を宣撫した際、質を辟し偕行させ、ある日檄を契丹に草させると質は毫を援いて即座に完成させ、辞気は激壮であった。允文は起ってその手を執り「景文は天才だ」と語った。敕令所刪定官召還、樞密院編修官に遷る。允文が国を主宰した頃、孝宗は諫官への推挙を命じ、允文は「質は鯁亮不回で文学も推重されている、右正言にすべき」とした。時に中貴人が用事して質を畏憚し、質は密かにこれを沮んだため出て荊南府通判に、吉州に改まるが皆赴任せず、奉祠し山居して禄仕への意を絶った。淳熙15年(1188年)卒。