宋史卷三百九十五 列傳第一百五十四 陸游
陸游は字を務観といい、越州山陰の人。荫補で出仕したが秦檜に忌まれ不遇であった。孝宗に文才と剴切な言論を評価され、王炎の幕下では中原経略の策を論じた。晩年は詩に長じ「放翁」と号したが、韓侂胄のため『南園閲古泉記』を撰したことを君子に惜しまれた。嘉定2年(1209年)卒、享年85。
経歴
- 陸游は字を務観といい、越州山陰の人。12歳で詩文をよくし、荫補で登仕郎、鎖庁薦送第一となる。秦檜の孫の塤がその次点であったため檜は怒り主司を罪した。翌年礼部試で再び前列に置かれると檜は顕らかにこれを黜けた、これにより検が嫌う人物となった。檜死後、初めて福州寧徳簿として赴任、薦者により勅令所刪定官に除せられる。楊存中が久しく禁旅を掌ることの不便を力めて陳じ、上はその言を嘉して存中を罷めさせた。中貴人が北方の珍玩を購入し進呈しようとした際、游は「陛下は名を損なわぬよう自ら経籍翰墨以外を屏して用いない、小臣が聖意を体さず勝手に珍玩を私買するのは聖徳を損なう、厳しく禁絶すべき」と奏した。応詔言事で「宗室外家は実に勲労があっても軽々に王爵を加えるべきでない、近ごろ師傅の身で殿前都指揮使を領する者があり、また太尉の身で閤門事を領する者があり、名器を瀆乱している、訂正すべき」と論じた。大理寺司直兼宗正簿に遷る。
- 孝宗即位後、樞密院編修官兼編類聖政所検討官に遷る。史浩・黄祖舜が游の詞章に善く典故に諳いことを薦め召見された際、上は「游は力学して聞こえがあり言論剴切」と評し、進士出身を賜った。入対で「陛下が即位したばかりで信の詔令を人に示す時に官吏・将帥が一切玩習に流れている、その最も沮格する者を取って衆と共に棄てるべき」と述べた。和議が成ろうとする際、游は二府に書を送り「江左は呉から以来、建康以外の都を置いた例がない、臨安への駐蹕は権宜による、形勢は固からず饋餉も便利でなく海道も逼近で凛然とした意外の憂いがある。一たび和が成って盟誓が立てば動くたびに拘礙が生じる、今こそ彼と『建康・臨安は共に駐蹕の地とし、北使の朝聘は建康か臨安いずれでもよい』と約すべき、こうすれば我らは暇な時に建都立国し、彼も我らを疑わなくなる」と論じた。
- 龍大淵・曽覿が用事した際、游は樞臣の張燾に「覿・大淵の招権植党が聖聴を熒惑している、公が今言わなければ異日は言えなくなる」と語った。燾はこれをそのまま上に聞かせ、上は語の由来を詰問、燾は游のことと答え、上は怒り游は建康府通判に出され、まもなく隆興府に易される。言者が游を「臺諫と交結し是非を鼓唱し張浚の用兵を力説した」と論じ、免帰させられた。しばらくして夔州通判、王炎が川陝を宣撫した際辟され幹辦公事となり、游は炎のために進取の策を陳じ「中原の経略はまず長安から始めるべき、長安を取るにはまず隴右から始めるべき、粟を積み兵を練り、釁があれば攻め無ければ守るべき」と論じた。呉璘の子挺が兵権を代掌し驕恣を極め財を傾けて士を結び屡々過誤で人を殺していたが炎はどうすることもできなかったため、游は玠の子拱を挺の代わりにすることを請うたが、炎「拱は怯えて謀が少ない、敵に遇えば必ず敗れる」。游「もし挺が敵に遇えば敗れないと保証できるか、たとえ功があっても駕馭できまい」。後に挺の子曦が僭叛するに及び游の言は的中した。
- 范成大が蜀を帥する際、游は参議官として文字の交わりで礼法にとらわれない振る舞いをし、人はこれを頽放と譏り、游は自ら「放翁」と号した。後に江西常平提舉に累遷、江西の水災で義倉を撥して振済し諸郡に粟を発して民に予えることを奏したが、召還されると給事中趙汝愚に駁され祠に付された。厳州知事に起用され、闕を過ぎて陛辞すると上「厳陵の山水は勝れた場所、職事の暇に賦詠自適せよ」。再召見で上「卿の筆力は回斡すこと甚だ善し、他人には及ばぬところがある」。軍器少監に除せられ、紹熙元年礼部郎中兼実録院検討官に遷る。嘉泰2年(1202年)孝宗光宗両朝実録及び三朝史が未完成の詔により、游は権同修国史・実録院同修撰として奉朝請を免じられ、まもなく祕書監を兼ねる。3年書成、宝章閣待制致仕。
- 游は才気超逸、詩に特に長けた。晩年に韓侂胄のため『南園閲古泉記』を撰し清議に譏られた。朱熹はかつて「その才が高すぎ、有力者に牽挽されて晩節を全うできないのではと恐れている」と語り、まさに先見の明があったといえよう。嘉定2年(1209年)卒、享年85。