宋史卷三百九十五 列傳第一百五十四 徐應龍

徐應龍(字は允叔)は潭州検法官として冤罪を正した硬骨の官で、金の南遷を予見して辺境への警戒を説き、講筵では軍将への贈賄横行を批判して宰相史彌遠に忌まれ侍讀を免じられた。嘉定十七年に卒し開府儀同三司・文粛の諡を贈られた。

経歴

  • 徐應龍は字を允叔といい、淳熙2年進士第、衡州法曹、湖南検法官に任じられる。潭州で劫盗の首謀者が既に獄に繋がれていたが、逃げた者を妄りに首謀と指す誣告があり吏がこれを信じ、逃げた盗を捕らえてから急に治めたためついに誣服した。吏が首従不明のまま憲司に讞せた際、應龍は詳しく実情を調べ、首従が明らかでないことを見抜いた。当時周必大が潭州判で提刑盧彦徳がこの逸盗を死罪にしようと望んでいたが、應龍は力めて弁じた。かつて彦徳は應龍の京削(推挙)を許すと言っていたが、この件で拒むと彦徳は怒って「君は私の門から出るのを望まないのか」と言った。應龍は「人命を文字(既定の判断)に付するのは忍びない」と答えた。彦徳はこれを奪えず、聞く者はその守るところを多とした。
  • 交々薦められ改秩、瑞州髙安県知事。呂祖儉が言事で韓侂胄に忤い髙安で死んだ際、應龍はその喪を経紀し文を作って誄した。危険を避けるよう勧める者に「呂君は私の敬する人、この事で譴を得ても本望」と答えた。朱熹は「髙安の政、義風凛然」と書を送った。淮西機宜文字を主管、南恩州知事。陳自強が国を主宰した頃、かつての同舎であったが應龍は雷州を求めて去った。都進奏院監召還、国子博士、工部員外郎守、戸部侍郎に進み国子司業兼実録院検討官・崇政殿説書に遷り、祕書少監守権工部侍郎。
  • 金主が汴に徙った際、應龍は「金人が窮して南奔すれば我が境に溢れ出て蹈む恐れがある、金が亡んでも新たな敵が生まれかねず特に憂慮すべき」と述べた。侍講を兼ねて「人主は天下の人材を尽く知り得ない、これを宰相に責めるべき、宰相もまた尽く知り得ない、これを公論に採るべき、李吉甫が相となり得人と称されたが三人の薦挙は実は裴垍の疏から出ていた」と論じた。吏部侍郎に遷り、刑部尚書兼侍讀に進む。應龍は講筵で時政を指陳することが多く、ある日呉起が卒の疽を吮った故事を講じた際、「呉起はこのように士卒を恤んだから死力を得られた、今の軍将は賄で遷り専ら掊克を事とし怨みを買っている」と奏した。上は驚いて「債帥の風は今なお除かれぬのか」と述べた。宰相史彌遠がこれを聞いて悪み、侍讀を免じられた。まもなく太子詹事を兼ね、景献太子薨去に伴い老いを理由に辞そうとするが許されず、吏部尚書に転じ、煥章閣学士として嵩山崇福宮提舉、嘉定17年(1224年)卒、開府儀同三司・諡「文粛」を贈られた。子の榮叟は官が参知政事に至り諡「文靖」、深叟は将作監丞に終わり、清叟は知樞密院事兼参知政事、それぞれ伝がある。