宋史卷三百九十五 列傳第一百五十四 莊夏

経歴

  • 莊夏は字を子礼といい、泉州の人、淳熙8年進士。慶元6年(1200年)大旱、求言の詔があり、時に贛州興国県知事の夏は封事で「君は陽、臣はその陰、今威福が下移しているのはこの陰が勝ることの現れだ。積陰の極まりで陽気が散乱して収まらなくなると火災・旱蝗の弊が起こる。陛下は陽剛の徳を体し、後宮・戚里・内省黄門に本分を越えぬよう思わせるべき、これが抑陰助陽の術だ」と論じた。太学博士召還、藩鎮の頻繁な人事異動の弊(「詔墨が乾かぬうちに除を改め坐席が温まらぬうちに地を易える、一人で歳三度節を易え、一歳で郡四度守を易えれば民力はどこから裕になるのか」)を論じた。国子博士に遷り、吏部員外郎召除、軍器監・太府少卿に遷り、漳州知事に出て宗正少卿兼国史院編修官となり、まもなく権直学士院兼太子侍讀。
  • 流民が帰還する中、夏は「荊襄・両淮に不耕の田が多い、計口授地し屋廬・牛具を貸与すれば、我が方はその始来に乗じて欲を叶えられ、彼は死なずに済んだことを幸いとして労を忘れる、兵民が合し屯田も成る、これは万世一時の好機」と論じた。中書舎人試み兼太子右庶子左諭徳、「戦守が成らず規模が定まらねば和好の説がその隙に乗じて入る」と述べ、今日の患は兵冗が最大とし、将帥に老弱の自陳を許し子弟壻姪の壮健な者を代わりに募兵させ名糧を代わらせる策を提案。上「兵卒子弟は召募の百姓とは異なる、卿の言は是」。兵部侍郎に除せられ煥章閣待制、祠に付され帰る。嘉定10年(1217年)卒。