経歴
- 許及之は字を深甫といい、温州永嘉の人、隆興元年進士第、袁州分宜県知事、部使者の推薦で諸軍審計に除せられ宗正簿に遷る。乾道元年林栗が諫員の増置を建言し唐制に倣い拾遺補闕を置いた際、及之は拾遺に任じられ、班序は監察御史の上に置かれた。
- 高宗崩御時、皇帝が既に三年喪を行ったが羣臣はそれに従い難く常服黒帯とすべきと論じた。王淮当国下、及之は「陛下即位27年、群臣が聖意に副えないのは苟且を安とし姑息を仁恕とし任事せぬのを簡重とし怨みを恐れぬのを老成と称し、敢言する者を軽儇と指し無恥な者を朴実と呼ぶためだ、陛下がこのような人物を得て相にすれば治に何の益があろうか」と痛烈に論じ、淮はまもなく罷職し祠に付された。
- 光宗受禅後、軍器監に除せられ太常少卿に遷るが言者に罷免される。紹熙元年淮南運判兼淮東提刑、鉄銭濫悪の責任で貶秩され廬州知事。大理少卿召還。寧宗即位後、吏部尚書兼給事中に除せられる。及之は早くに薛叔似と共に遺補に擢せられ共に当時に予されていたが、党事が起こると善類が一空され叔似は屡々斥逐された一方、及之は侂胄に諂事しあらゆることをした。かつて侂胄の生日に朝行が上寿に集まった際、及之は遅れて至り閹人が門を閉じ拒んでいたが、及之はかがみ込んで入った。尚書の職に2年不遷であったことを侂胄に涙ながらに訴え、その知遇の意と自身の衰老の状を語り知らず膝を屈するに至った。侂胄は憐れみ「尚書の才望は上心に簡ばれている、まもなく進拝するだろう」と語った。ほどなく同知樞密院事、当時「竇尚書が膝を屈して執政になった」との話が伝わり笑話とされた。
- 嘉定2年(1209年)参知政事に拝され知樞密院事兼参政に進む。兵端が開かれ、侂胄は及之に金陵守備を命じたが及之は辞退した。侂胄誅殺後、中丞雷孝友が「及之は実に侂胄の開辺を賛助し、金陵守備の際も詭計で赴任を免れようとした」と弾劾、二官を降され泉州居住、嘉定2年卒。