宋史卷三百九十四 列傳第一百五十三 梁汝嘉

梁汝嘉(字仲謨、処州麗水の人、?–1153年)は秦檜と親しく、臨安府知事として火盗の鎮圧に功績を挙げた能吏。戸部尚書・江淮荊広経制使などを歴任したが、殿中侍御史周葵の弾劾情報を秦檜派に漏らしたことで士大夫の信を失った。

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経歴

  • 梁汝嘉は字を仲謨といい、処州麗水の人。外祖の太宰何執中の任により入官、中山府司議曹事に調任。建炎初、常州武進県知事、守臣がその治状を薦め通判州事に擢せられ直祕閣を加えられ、転運副使に歴任。臨安に守の欠員があり火盗が頻発した際、汝嘉に摂事を命じ、火政を修め巡徼を厳にすると盗発も鎮まり火災も収まった。真の守に任じられ直龍圖閣を加えられ、称職を以て徽猷閣待制、試戸部侍郎兼知臨安府に擢せられ、累遷して戸部侍郎、権尚書兼江淮荊広経制使に進む。
  • 汝嘉は素より秦檜と善く、殿中侍御史周葵がこれを弾劾しようとした際、汝嘉はこれを聞いて中書舎人林待聘に「副端があなたを論じようとしている」と告げ、待聘は急いで檜に告げて葵を起居郎に転出させた。葵は入って後省を出、疏を待聘に示して「梁仲謨は何と幸いなことか」と語り、待聘は初めて汝嘉に賣られたと知り、士大夫はこれを聞いて汝嘉を薄めた。汝嘉は求去し寶文閣直学士提舉太平観となり、まもなく学士に進み明州知事、浙西沿海制置使、温・宣・鼎三郡を歴任し、再び奉祠して帰った。紹興23年(1153年)卒。汝嘉は吏治に長け、臨安在任中の治績は特に著しかった。

史論

  • 君子が人を論じる際もまず大なるものを観るべきである。忠孝は人の大節である。胡紘はその君を導いて短喪にしようとした、忠と言えない。何澹は実母継母の服を疑い、士論が紛紜として後に去った、孝と言えない。彼らが大節をすら忍んで為すことができるなら、権姦に協比し善類を誣搆することも何ら憚らないのは当然である。謝深甫の出処は旧史がその迹を泯した(隠した)ため一見議すべき点がないように見えるが、慶元の初め韓侂胄が偽学の禁を設けて善類を一空した時期、深甫は正にその政に与っていた、「知らなかった」では済まされない、まして一たび陳傅良を弾劾し再び趙汝愚を弾劾した事跡は深甫の疏に隠しようもなく現れている。陳自強・鄭丙・許及之らは狐媚苟合して貴寵を竊んだに過ぎず、論じるにも足りない。林栗の治才と論事の巧みさ、高文虎の該洽の自負、京鏜の伏義秉礼を敵国にまで示した節義には、称すべき点がなくはない。しかし栗は私忿で名儒を詆り清議に容れられず、文虎は偽学の詔を起草して是を非とし正を邪とし黒白を変乱させて当世を欺いた、その人物は知れよう。鏜は暮年に政を得ながら姦に朋して容を取り既にその初服を愧じさせるものであった、まして偽学の目は識者によれば鏜が実際に発したものだという。士君子が一たびその正を失って流されたまま返ることを知らねば千古の罪人となる、恐るべきことだ、恐るべきことだ。