宋史卷三百九十四 列傳第一百五十三 何澹

何澹(字自然、処州龍泉の人)は学官人事への私怨から周必大を弾劾し、諫垣の長として偽学の禁に加担した官僚。劉徳秀とともに専ら偽学(道学)を攻撃する言官として用いられ、御史中丞・参知政事・知樞密院事を歴任した。呉曦の蜀帰任には反対して韓侂胄と対立、晩年は地方官として20年近くを過ごした。

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周必大への恨みと偽学禁への加担

  • 何澹は字を自然といい、処州龍泉の人。乾道2年進士、国子司業から祭酒に累遷、兵部侍郎。光宗内禅で右諫議大夫兼侍講。
  • 澹は元は周必大に厚遇されていたが、学官2年不遷であったのを周必大が遷任させたことを恨みに思い、諫垣に長じると必大を弾劾し、必大は罷免された。かつて親しい劉光祖にこの意を語った際、光祖は「周丞相を論じるべきでない、その門下に佳士が多い」と諫めたが澹は聞かず、その推挙する人物も澹に採られなかった。当時、姜特立・譙熙載が春坊の旧恩で用事しており、光祖が澹を訪ねた際「曽龍の事は再びあってはならない」と語ると、澹は「姜・譙のことか」と答え、光祖を便坐に引くとそこにいたのは皆姜・譙の徒であった。光祖はここで澹の真意を悟った。
  • 翌年、澹は同知貢挙、光祖は殿中侍御史として学術邪正の章を上奏、放榜で光祖が拆号のため入院した際、澹は「近日の風采は一新した」と皮肉を語り、光祖は「立異ではない、かつて大諫であった時の言を今日述べただけ」と答えた。同院の者に澹は「何自然はあなたが上げた章を見て数夕恍惚とし精神を病んでいる、他も推して知るべし」と語った。
  • 御史中丞に進み、澹の本生(実母)継母の喪について有司に服の定めを求めた際、礼寺は「解官すべき」としたが、澹は「不逮事」(生母に事えたことがない)の文を引いて給諫議での議定を求めた。太学生の喬崈・朱有成らが書を送り「あなたは台諫の長であり、これは綱常に係る、40余年生母継母に事えてきたのに終わりに至って生に及ばぬとして心喪を持たぬのはよいのか、奉常の礼がここから出るのに台諫給舎に議定させるのは識者に見透かされる」と批判、澹はついに終制した。
  • 煥章閣学士知泉州、明州に移り、寧宗即位後、朱熹・彭龜年が韓侂胄を論じて共に退けられた際、澹は中丞に復帰、趙汝愚が援引しなかったことを怨み、汝愚が免相後さらに詆り「夀皇の良法美意を廃壊した」として汝愚は職を落とされ祠に付された。専門の学が偽に流れることを憂い、学者は専ら孔孟を師とし自ら標榜すべきでないと論じた。
  • 同知樞密院事、参知政事、知樞密院に進む。呉曦が時宰に賄賂して帥蜀を図った際、澹に賄が及ぶ前に韓侂胄は既にこれを許していた。澹はこれに反対したが、侂胄は怒って「初めは君が私に肯って就き偽学を黜けるのに汲引したのがここまで来て今また立異するのか」と言った。資政殿大学士提舉洞霄宮として福州知事に出された。澹は外に居て常に怏怏として意を失い、侂胄への書に「迹は東冶にあるも心は南園にあり」(南園は侂胄の家圃)と述べ、侂胄はこれを憐れみ観文殿学士に進めた。まもなく隆興府知事、後に江淮制置大使兼建康府知事、湖北・江陵に移り、奉祠卒し、少師を贈られた。
  • 評:澹は姿容美しく談論に長け、若くして科名を得て栄進を急ぎ、権奸に阿附し善類を斥け偽党の禁を専らにし、賢士は一空された。その後更化されると兇党は皆逐われたが、澹は早くに退いていたためほぼ免れ、20年近く散地で優游した。