韓侂胄への追随と趙汝愚・朱熹の弾劾
- 胡紘は字を応期といい、処州遂昌の人。淳熙中挙進士、紹熙5年(1194年)京鏜の推薦で都進奏院監、司農寺主簿・祕書郎に遷る。
- 韓侂胄が朱熹・趙汝愚を逐うことを決めかね、紘を監察御史に抜擢した。紘はかつて未達の時、建安で朱熹に謁見した際、熹が学子と同じ脱粟飯でもてなしたことに不満を持ち「これは人情でない、山中でも一鶏一酒ぐらいはあるはず」と語って去っていた経緯があった。紘は趙汝愚を弾劾し、朱熹を引用したことを「偽学の罪首」と誣告し、汝愚は永州に謫された。
- 汝愚が罪を得て去った当初、搢紳大夫や学校の士は憤悒不平で疏論する者が多かった。韓侂胄はこれを患い、汝愚の門と朱熹の徒に知名の士が多く不便であるとして、一々罪を誣せられないため「偽学」の目を設けて擯斥することとし、何澹・劉徳秀を言官として専ら偽学を攻撃させたが、公然と熹を攻める者はなかった。紘のみが疏を起草しようとしたが太常少卿に転じ果たせなかったところ、沈継祖が程頤追論で察官となった際、紘は草稿を渡し、継祖の熹弾劾論は実は紘の筆であった。
- 寧宗が孝宗の嫡孫として三年服に服すべきかについて、紘は「期(一年)のみでよい」と論じ、侍從台諫給舎に集議させ服を釈させた。太常少卿に転じ、太廟饗礼の後、言責を解いた紘は再び疏を上げ「比年以来、偽学は猖獗し不軌を図り上皇を動揺させ聖徳を誣いようとし、幾ど大乱に至ったが、二三大臣・台諫が死力を出して排したので元悪は殞命し羣邪は屏跡した。しかるに御筆に『偏を救い中を建てる』の説があってから、意を誤って認め急いで奉承しようとし『調停』の議を唱えて前日の偽学の姦党を次第に用いようとする者がいる、これでは他日また報復されぬかと望んでいるに過ぎない。往時の建中靖国の事を戒めとすべき、陛下は何故これを悟らないのか。漢の霍光は昌邑王賀を廃した一日で羣臣百余人を誅した、唐の五王は武三思を殺さず旋踵せず三思の手に斃れた。今、古法を尽く用いられないとしても、少なくとも田里に退伏させ愆咎を省させるべき」と論じた。
- まもなく起居舎人に遷り、詔で偽学の党の宰執が進擬を停められる(紘の言による)。学禁はますます厳しくなり、起居郎権工部侍郎に進み、礼部・吏部に移り、同知貢挙で宏詞の考査の不当により罷免された。まもなく学禁が漸く弛むと紘も廃棄され、家で卒した。