宋史卷三百九十四 列傳第一百五十三 林栗

経歴と論議

  • 林栗は字を黄中といい、福州福清の人。紹興12年進士、崇仁尉、南安軍教授。宰相陳康伯の推薦で太学正、太常博士に進む。孝宗即位、屯田員外郎、皇子恭王府直講。
  • 金人が叔姪の国として和議を求め帰疆を求めた際、栗は封事で「前日の和議は非策であったが、なお徽宗の梓宮・慈寧行殿がそちらにあり屈するにも名分があった。今日の和議は臣にはその理由が分からない。宗廟の讎に弟姪の礼で事えることを祖宗に聞かせられるか。唐鄧を失えば荊襄に唇歯の憂い、泗海を失えば淮東の備えがなくなり、真揚の海道の防が明越に及ぶ。議者は和戎の幣が養兵の費より少ないと言うが、講和後も朝廷は養兵を止められない、東南の民力は陛下も知る通りだ。既に嵗幣を与えれば畏れを示すことになり、三軍の情も懈弛し帰正の心も離反する。今日の計は使を停めて派遣を延期し、来春まで動きを見て、境上で書を送り誓言が破られたのはそちらの信不由衷によるものと諭し、盟約はもう無益、今後は分界を守って生霊を休息させ、犬羊の使のために州県を疲弊させるべきでない」と説いた。
  • 孝宗は紹興権臣の弊を懲り自ら権綱を握り臣下に任せない中、栗は「人主は権に涖み、大臣は権を審らかにし、争臣は権を議す。王侯貴戚は権を撓す者、左右近習は権を竊む者。権が大臣にあれば大臣が重んじられ、邇臣にあれば邇臣が重んじられ、争臣にあれば争臣が重んじられる。人主は常に権が臣下にあることを患い自ら独りで持とうとするが、独りで持てた者はいない。大臣に持たせなければ王侯貴戚がこれを持ち、邇臣に審らかにさせず争臣に議させなければ左右近習が議することになる」と論じ「明主は人に権を持たせつつ与えず、収攬しつつ独りでは持たない、鹿を馬と言い鶏を鸞と言う語もある」と述べた。孝宗はこれを善しとしたが、栗が「臣の意はなお下文にある」と続けると、執政の一人が孝宗に「林栗は臣らを指して鹿を馬と言うと非難した、臣は彼と同朝を望まない」と訴え、栗は江州知事に出された。
  • 江州の屯駐軍を省併する旨があった際、栗は「辛巳・甲申(金軍の侵攻年)の際、江州一軍の分布防托によって舒・蘄・黄三州だけが寇を被らなかった、この州は鄂渚まで700里、池陽まで500里、平時は無益に見えても有事にはこの千里の藩籬が欠ければ守れない」と奏し、軍は動かされずに済んだ。
  • 吏部員外郎に召され、冬至の南郊儀礼、会慶節の上寿で用楽しない旨があったが金使への宴で用楽の命が出た際、栗は不可として宰相に書を送るが聞かれず、免充と申し出て「楽を聴けば斎を廃し、斎を廃せば祭祖宗の礼を敢えてできない、一介の行人(使者)のためにこの200年来の事天の礼を廃せば天の畏るべきこと外夷より甚だしい」と論じたが聞かれなかった。
  • 皇子慶王府直講を兼ね、二王が非時に講讀官を招延して時政を議論する旨があった際、栗は「漢武帝は戾太子のために博望苑を開き太子を敗らせた、唐太宗は魏王泰のため文学館を立て魏王を敗らせた、古の世子教育は講経讀史に留まり他は関与させない、時政を議論させるのは子が父を議するようなもので古人は無礼と言った」と反対、右司員外郎に除せられ太常少卿に遷った。
  • 太廟祫享の制で始祖東向・昭南向・穆北向、別廟の神主は祖姑の下に本室に随い南北向で西向の位がなかったが、紹興乾道間の懿節・安穆二后の升祔で有司が西向の幄を設け、安恭皇后の新祔で有司が前例を誤り禧祖と対する位置にしたため、栗はこれを弁正した。
  • 直寳文閣知湖州として朝辞し、賈誼が「天下の勢は大瘇の病、痛哭流涕して上書した」ことを引き、士大夫の時事論を「今日の国体は四百四病のうちどの病か答えられる者はいても、その処方まで答えられる者は稀、病を言えずに処方すれば人を誤って死なせる」と論じ、「今日の病は風虚(半身不随)、風は外にあり虚は内にある、真気が内耗し風邪が外から乗じたのが靖康の変、元気がなお存し起き上がったのが建炎の興、しかし邪気はなお盛んで淮以北はなお故壌でありながら号令も正朔も及ばない、これは半身不随以上に、半身が存する部分も風邪の乗じることを凛々と畏れて自ら安んじられない状態だ」と喩え、「中風の偏廃は五十歳以下で気盛んな者は治りやすい、真気が邪気に勝るからだ。真気を養うには嗜欲を禁じ思慮を節し気血を愛し精神を養い半存の身を充実させ、急いで治そうとして百毒を口に入れ五臓が風を受ければ、中風が再至する多くは救えなくなる、賈誼が今生きていたら陛下にこう言うだろう」と論じた。
  • 興化軍知事、南劍に移り、夔路提点刑獄、知夔州加直敷文閣。夔の属郡施州と羈縻郡思州の間で、施の民譚汝翼が思州知事田汝弼と交悪、汝弼死後、汝翼が兵2千で喪を伐ち、汝弼の子祖周が報復に深入りし施黔が震撼した。汝翼が甲兵を繕い丁壮を料り重幣で洞蛮を借り帥府に援を乞うと、栗は「汝翼こそ乱を召いた者」として檄で罷兵させ、属吏を密かに施に派遣して兵職を摂させ次第に汝翼の権を収め、兵馬鈐轄に諸州を按閲させた。汝翼は気づかず皇遽に成都へ逃げ込んだ。事が聞こえると孝宗は栗と成都制置使陳峴に親札を賜り「田氏は羈縻州郡だが譚氏は夔路の豪族、率先して釁端を起こしたのに帥閫が弾圧できないままここまで来た、なお悛めないなら加兵しその元悪を除け」と命じた。汝翼は成都でこれを聞いて逃げ帰り家丁と役八砦の義軍を集め沱河橋に列陣して官軍と戦い潰れて逃げ、俘虜43人、甲鎧器仗3万1千を得た。栗はその巨悪9人を誅し、田祖周は母の冉氏と謀り黔汢の田業を献じ計銭90万緡で贖罪、蛮徼は安んじた。
  • のち汝翼が都に訴え、栗が田氏から金を受けたと言い、詔で汝翼を属吏とし省劄が夔州に下されたが、栗は自ら奏状を書き繳還しその事を辨明した。上は大いに怒ったが近臣の救解する者があり、まもなく「栗は帥臣の身で上命を擅格した」罪で職を鎸られ罷り帰り、後に理寺が事を追究し汝翼の死罪を貸し紹興府に幽置させた。しばらくして詔で「栗は久しく事任を歴て清介の聞こえあり」として直寳文閣、広南西路転運判官に復し提点刑獄に改まり、潭州知事、祕閣修撰、集英殿修撰に進み隆興府知事。召対便殿で唐制に倣い補闕拾遺各一員を置くことを奏し、糾弾を責としないよう提案、従われた。
  • 兵部侍郎、朱熹が江西提刑から兵部郎官に召される際、栗はかつて熹と『易』と『西銘』について論じ合わなかった。熹が国門に入りながら就職せず、栗が吏部に催促させると熹は脚疾を理由に告を請い、栗はついに熹を弾劾した。「熹はもとより学術がなく張載・程頤の緒余を窃取して浮誕を宗主とし、道学と称して自ら推尊し、至る所で門生十数人を携え春秋戦国の態を習い妄りに孔孟歴聘の風を希う、治世の法で計れば乱人の首。今その虚名を採って入奏させ朝列に置いて次第に収用しようとしたが、熹は命を聞くや道途を遷延し高価を邀索し門生が代わる代わる遊説し政府が風聞を許した後に入門し、陛対を経て官と郎を除されながら不満を懐き傲睨累日して供職を肯んじない、これが張載・程頤の学が教えたことか。臣は熹の兵部郎官として臣に統摂があり、これを挙劾しなければ罪が均しい、熹を停罷し循省させて事君無礼の戒とすべき」と論じた。上はその言を過当としたが大臣は栗の強さを畏れ深く論じなかった。太常博士葉適が独り封事を上げ弁じた。「栗の辞を考えるに始終参験して一つも実のあるものはない、その中で『道学』と称した一語は最も実がない。昔から小人が良善を害する時は必ず指名するか、好名・立異と言うが、近ごろ剏めて道学の目を作り、鄭丙が唱え陳賈が和した。要路にある者が密かに互いに付授し、士大夫が少しでも潔修操守を務めれば道学の名を帰す、殆ど喫菜事魔(邪教)の影迹の犯敗の類のようだ。かつて王淮が台諫を表裏として密かに正人を廃したのもこの術による。栗は侍從として陛下の徳意志慮を天下に達すべき身で、鄭丙・陳賈の密かな伝授の説を襲い、道学を大罪として文致し朱熹一人を逐った、これは大した害ではないが、これから游辞無実の讒言が横生し善良が受害しないところがなくなる恐れがある。陛下は紀綱の在るところを正し、既に形をなした欺罔を絶ち、暴横を摧抑して善類を扶け、剛断を奮発して公言を慰めることを願う」と論じた。侍御史胡晉臣が栗を弾劾し罷免、泉州知事、明州に移り、奉祠で卒、諡「簡肅」。
  • 評:栗は為人強介で才があったが性は狷急、私忿を晴らそうとして名儒を攻詆し師教を廃絶した。殆ど鄭丙・陳賈・何澹・劉徳秀・劉三傑・胡紘らと党邪害正の同科であり、かつての雄弁な議論も晩節の誤りを覆えない。