宋史卷三百九十四 列傳第一百五十三 高文虎

経歴

  • 高文虎は字を炳如といい、四明の人、礼部侍郎閌の従子。紹興庚辰進士、平江府呉県主簿。曾幾が官在吳中、文虎はこれに従い遊学し聞見博洽で典故に詳しかった。国子正、太学博士に遷る。孝宗が両学に幸した際、祭酒林光朝が儀注を訪ね、文虎は国朝以来の臨幸故事を輯めて授けた。国史院編修官を兼ね四朝国史編修。建昌軍知事に出るが将作丞兼賞録院検討官に擢用され『高宗実録』の修纂、玉牒所検討官として『神宗玉牒』の修纂を担当、煕寧以来の史料の混乱を朱墨本ですべて研覈して正した。奏御の後さらに『徽宗玉牒』を修め、宣和・崇観以来の考訂を特に詳審に行った。
  • 寧宗即位後、軍器少監兼将作監に遷り、国子司業兼学士院権直、祭酒、中書舎人兼直学士院兼祭酒、実録院同修撰同修国史に進む。韓侂胄が用事して既に趙汝愚・朱熹を逐い、その門下に知名の士が多いとして偽学の目を設けて擯斥した際、文虎に詔を起草させた。「かつて権臣が朝を擅にし偽邪が朋附して姦宄を肆にし禍心を包蔵した。天霊・宗廟の福により朕は旧く慈訓を承け内禅を受けた。隠謀が国勢を壊散させたが今は安定し、士大夫と厲精更始することを共にする。淫朋比徳の者もその自新を期していたが、月日を経てもなお化を廸かず、締交合盟して間隙を窺い毀誉が舛迕し流言が間発し国是を傾け衆心を惑わそうとするに至った、甚だしくは元祐の衆賢に竊附しようとしながら実は紹聖の姦党に類することを思わない。国家は徳を秉り康寧であり汝を瑕殄しない、今はただ自ら不靖を為すのみ、思うに流俗に漸染した過ちを復すことができぬのか、あるいは国の寛恩を狃んで罰が及ばぬと侮っているのか、何故朕の意に称うよう洗濯できないのか。朕は既に二三大臣・侍從言議の官に深く詔し正論を維持して天下に明示している。この告げが及ぶ者は各々視聴を改め、疑似の説を借りて世俗を惑乱させぬように。もし非を遂げて悔いず怙終して悛めなければ邦に常刑あり、必ず罰して赦さない」との内容であった。
  • 西掖の詞命は旧例、数人で一詞を共作していたが、文虎はこれを人材の訓戒・讚許にふさわしくないとし、一人一人が個別に作るよう改めた。兵部侍郎兼中書舎人、また祭酒を兼ね、翰林学士兼侍讀、実録院修撰脩国史に拝された。華文閣学士知建寧府、力めて祠を丐い太平興国宮提舉、台臣の言により職を奪われ卒した。
  • 評:文虎は博洽を自負し、胡紘と結党して共に道学を攻撃、久しく学校を司って天下の士(性命道徳を語る者)を専ら困窮させた。