宋史卷三百八十五 列傳第一百四十四 龔茂良
龔茂良(字は実之、興化軍の人)は紹興8年(1138年)進士。曽覿・龍大淵ら近習の専権を諫め、参知政事として大旱の荒政や医療救済に功があった。晩年、謝廓然の弾劾で英州に流され父子とも配所で卒したが、後に冤罪が晴らされ莊敏と諡された。
年表(2件)
- 紹興8年1138年進士に及第した
- 淳熙4年正月1177年史浩の再起用の動きの中で辞去を求めるも慰留された
出自と諫言
- 龔茂良は字を実之といい、興化軍の人。紹興8年(1138年)進士、南安簿・邵武司法を経て、父母の喪に哀号擗踊した孝が知られる。泉州察推として廉勤を評され、同知樞密院事の黄祖舜の推薦で秘書省正字、吏部郎官に累進した。
- 張浚の江淮視師に際し「景徳の勝は能断に本づき、靖康の禍は疑いを致すことにあった。景徳の断を法とし靖康の疑いをなすべきでない」と論じた。江浙の大水害の際、詔に応じ「水は至陰であり女寵・嬖佞・小人専制の兆しである」として崇観政和年間の小人道長を戒め、内侍の梁珂・曽覿・龍大淵の専権を指摘した。
- 内侍の李珂が死去し節度・諡靖恭を贈られた際、「趙鼎・韓世忠のような中興の名相・勲臣にも諡がないのに珂に与えるのは惜しい」と諫めて撤回させた。大淵・覿の姦を重ねて論じ、唐徳宗と李泌の故事を引いて危険性を訴えたが、家居待罪となり、太常少卿を五度辞退、直祕閣知建寧府に落ち着いた。
地方官・参知政事としての善政
- 曽覿・龍大淵が逐われた後、広東提刑・知信州として起用され、番山に学を建て、番禺・南海の県学も整備した。城東の広惠庵で中原の遺骨を改葬する事業も行った。
- 左丞相の陳俊卿に留任を望まれるも右相の虞允文に疎まれ、江西運判兼知隆興府として大旱の荒政を担当。上戸への負担を避け、疫病流行時には医療で数百万人を救済したと評された。
- 待制敷文閣、礼部侍郎、参知政事に進み、上から「両参政(葉衡・茂良)は公議の一致するところ」と評された。「大臣は道をもって君に事える。啓沃を隠すべきでない」と応じた。
- 淮南の旱害に対し封樁米14万を漕帥に委ねて振済させ、「淮南は敵境に近く、民が久しく業に復さぬまま飢寒に迫られれば嘯聚の患いが起こる」と主張し功を挙げた。湖州通判の不法疑惑では、茂良の郷人であることを利用した陥穽に巻き込まれかけたが、上は「参政に決してそのようなことはない」と信頼を示した。
- 葉衡の罷相後、首参として相事を行い、朱熹の登用を建言したが果たせず、銭良臣の大軍銭糧侵盗を暴いた。淳熙4年(1177年)正月、史浩の再起用の動きの中で辞去を求めるも慰留された。
- 曽覿の孫への大資禄付与要求を格法に照らして拒み、覿の使いが道を塞いだ際に厳しく叱責した。曽覿の衝替(更迭)を促す密詔を漏らさず処理したが、部下の賈光祖らを撻ったことで手詔の批判を受けた。
- 御史の謝廓然に「五年恢復を語らなかったのに今語る」ことを咎められ落職放罷、安置英州となり父子ともに貶所で卒去。覿・廓然の死後、茂良の家族が投匭して寃罪を訴え、周必大の進呈により通奉大夫・資政殿学士を復し諡を莊敏とされた。
- 朱熹が後に茂良の恢復論の副本を得て読んだところ、実際には「恢復は軽々しく行うべきでない」という趣旨であったことが分かり、深く歎息したという。
史論
- 葛邲は宰相位が短かったが、法度を守り人材を進めることができ、身を処すには不欺を本とした。銭端礼は戚属をもって宰相となった。周葵は晩年秦檜に附かなかったが、龔茂良と共に和議を主とした。魏杞は使金に際し国体を尊んだこと、施師點の靖重にして守るところがあったこと、蕭燧の忠実にして敢言であったことは、紹興の間に仕えた者としては不幸であったと言うべきだろう。