宋史卷三百八十六 列傳第一百四十五 劉珙

劉珙(字は共父、劉子羽の長子、享年57)は蔭補ののち進士乙科に及第。秦檜死後、龍大淵・曽覿ら近習の専権に抵抗し、参知政事として財政改革を進めた重臣。地方官としても湖南の李金の乱平定や江東の水旱害救済に功績を残した。忠肅と諡された。

年表(1件)
  • 淳熙2年1175年知建康府江東安撫使として水旱害の救済にあたった

出自と諫言

  • 劉珙は字を共父といい、子羽の長子。生まれつき奇質があり、季父の子翬に学んだ。蔭補で承務郎、進士乙科に及第、紹興府都税務を監じ、祠禄を求めて帰り門を閉ざして力学した。
  • 諸王宮大小学教授、礼部郎官に累進。秦檜が父の諡を追贈しようとし礼官を召したが珙は出席せず、檜の怒りを買い讒言で逐われた。檜死後、大宗正丞、吏部員外郎として選集の令式を庭中に置き自由に閲覧させ、吏の巧智を封じた。
  • 兼権秘書少監兼権中書舎人として、金の侵攻に際し北向する王師を鼓舞する激烈な檄文を書いた。御史の杜莘老が内侍の張去為を弾劾し左遷されそうになった際、珙は制書の起草を拒み、莘老は難を免れた。
  • 建康行幸に従い直学士院を兼ねた。車駕還都に際し軍務の後継が定まらぬ中、張浚が留守として衆望を集めていたが、楊存中を江淮宣撫使とする詔に珙は署名を拒み録黄で異議を唱えた。上は「劉珙の父は浚に知られていた。これは浚のためだろう」と怒ったが、珙は「私は国家のために計るのであって張公のためではない」と初めの奏を貫き、存中の任命は取り止められた。

地方官としての実績

  • 田師中の死後、家人が没入財産の請求や、李珂の督府掾就任要求を退けた。泉州・衢州知事、湖南旱害・郴州宜章県の李金の乱に際し湖南安撫使として、制使沈介に「擅興の罪は私が負う」と便宜出兵を求めた。
  • 疲れた敵軍を犒賜で厚遇し、莽山への追撃で賊党の曹彦黄を捕らえ李金を降した。降伏者には罪を免じ賞を与える策で残党も相次いで帰順させた。孝宗から「近世の書生は清談ばかりで経綸の才は稀だが、卿は賊を誅し功状も詳実」との璽書を賜った。
  • 翰林学士知制誥兼侍読として、漢高帝が儒を軽んじたのは腐儒俗学のためであり聖王の学を告げれば必ず敬信したはずと論じた。中大夫同知樞密院事として、汪応辰・陳良翰・張栻の才を推挙し、特に張栻の破賊への貢献を称えた。

参知政事としての財政改革

  • 参知政事として福建鈔塩の歳額2万を除き、江西の和糴・広西の折米塩銭を罷め、諸路の累年逋負の金銭穀帛を巨億計で免除した。
  • 龍大淵・曾覿の逐去後、上が覿を呼び戻そうとした際、「この二人が去って天下は威断を仰いでいる。厚く賜って遠ざけるべきで、近くに引き機事に関わらせれば徳業を損なう」と諫めて阻止した。
  • 殿前指揮使の王琪が和州教授の劉甄夫を推薦した際、「この人物の名位を琪がどうして知るのか」と疑い、琪を追及して密薦の事情を白状させた。揚州の増築工事の勅命偽造も暴き罷免させたが、この過程で強く争ったため、端明殿学士として外祠に出された。
  • 陳俊卿の推薦で知隆興府江西安撫使に転じ、辞去に際しても6事を献じた。租税制度の新額を蠲し苗倉の大斛を廃し、奉新県の逃税問題も対処した。

地方統治と晩年

  • 資政殿学士知荊南府湖北安撫使を経て、継母の喪により去り、起復同知樞密院事荊襄安撫使となる際、六度上奏して辞退を訴え、「三年の喪は三代でも変わらぬもので、金革無避の説を唱えた漢儒は先王の罪人だ」と論じた。
  • 服喪後、湖南安撫使として時事を極論し、進資政殿大学士。安南の貢象の輸送で民が疲弊したことに反対し、「象の使用は経に見えず、遠夷の野獣に苦しめられるのは仁聖の政にあらず」と論じた。
  • 湖北の茶盗数千人の侵入に対し、招撫策を用いて自然に瓦解させ、首悪数十人を軍籍に編入した。
  • 淳熙2年(1175年)知建康府江東安撫使として水旱害に際し夏税・秋苗の大幅減免、貸米・平糴で数十万人を救済し、9か月にわたり一人の流民も出さなかった。進観文殿学士に進み、疾により致仕を請い、孝宗は医師を送った。
  • 遺奏で恭・顕・伾・文(漢の宦官)の近習専権の戒めを説き、陳俊卿・張栻の登用を薦め、栻・朱熹に訣別の手書を送った。「未だ讐恥を雪げないことを恨みとする」と記し享年57で薨去。光禄大夫を贈られ諡は忠肅。孝喪において継母の喪にも尽くし、功緦の親族にも喪服を通した。民に慕われ、訃報に罷市する地もあった。