出自と検校拒否、地方官
- 蕭燧は字を照鄰といい、臨江軍の人。高祖の固は皇祐初年(1049年頃)広西転運使として儂智高への羈縻策を建言したが用いられず、後に智高は叛いた。父の増は紹興初年に制挙に応じた。燧は生まれつき頴異で文をよくし、紹興18年(1148年)進士高第、平江府観察推官となる。
- 秦檜の親党が「秋試の主文は必ず君になる」と密告し、檜の子・秦熺を合格させるための便宜を求めたが、燧は「初仕にして心を欺けようか」と怒り拒絶。檜はこれを恨み、燧は静江府察推に左遷され、秦熺は結局前列に及第した。
- 靖州教授、孝宗即位後の諸王宮大小学教授として輪対で「官は人を択ぶべきで、人のために官を択んではならぬ」と論じ、孝宗は喜んで用人論を著し大臣に賜った。
- 淳熙2年(1175年)国子司業兼権起居舎人、進んで起居郎。左司諫として、宦官の甘昪の客・胡与可、王抃の族叔・秬らが外任で不正を働いていたのを罷免。進取論への対応を問われ「今賢否雑揉し風俗澆淳、兵は未だ強からず財は未だ裕かでない。臥薪嘗胆で内治を図るべき」と答え、上は「忠言なり」と称賛した。
地方官としての実績、晩年
- 右諫議大夫として、江東西湖南北の帥司の招軍が実際には市井の年少者を捕えて数を合わせている実態を指摘し是正を求めた。夔帥の李景孠の貪虐を参政の趙雄が庇う中、独り弾劾し、雄の反撃を受けたが最終的に自劾して刑部侍郎を辞退、嚴州知事に出た。
- 厳州では財政が窮乏していたが、2年で緡銭を15万まで積み立て、逋負を補填。方臘の乱の周年に不穏な動きがあった際も迅速に対処し混乱を防いだ。功績により敷文閣待制、婺州知事に転じ、父老が数千人で見送った。
- 旱害の際、常平司の粟の移送要求に「東西異路で当てはまらない」としつつも太倉米で救済。吏部右選侍郎、兼国子祭酒、樞密都承旨、権刑部尚書として金使の館伴を務め、権吏部尚書として広西の身丁銭の弊を上申。
- 侍講・侍読として、命令・憲章の頻繁な変更、初官の恩例免試の乱れ、羨余の名目の乱用などを指摘。高宗の山陵按行使、参知政事、永思陵礼儀使、権監修国史日暦を歴任し、淳熙16年(1189年)権知樞密院、紹熙4年(1193年)卒去、享年77。諡は正肅。孝宗は常にその「善類を全護し誠実にして欺かず」を称賛した。子の達は淳熙14年(1187年)進士第4位で、太常まで至った。