宋史卷三百八十四 列傳第一百四十三 梁克家

出自と諫言

  • 梁克家は字を叔子といい、泉州晉江の人。幼くして聡敏で、書は一度見れば暗誦できた。紹興30年(1160年)廷試第一。金主亮の死後、諸将が進取を唱える中、克家は陳俊卿に「敵は退いたが我が兵力は未だ振るわず、無理な進取は後悔を招く」と書を送り、陳康伯はこの遠慮を称賛した。
  • 秘書省正字、著作佐郎に遷り、災異が頻発した際に求言の詔を献策。侍従台諫卿監郎官館職に闕失を疏させる制度を提案し、自らも「正心術」「立紀綱」「救風俗」「謹威柄」「定廟算」「結人心」の6事を挙げた。廟算では将・兵・財の3説を切実に論じた。
  • 使金の際、金が「中朝の進士第一」と敬待し、館宴の射で数十発的中させた。金使の来朝礼儀の整備、郊祀の雷震異変への6事の建言などを行い、給事中として3年間直言を続けた。
  • 乾道5年(1169年)2月、端明殿学士簽書枢密院事。翌年参知政事、さらに翌年知院事を兼ねる。金が捕虜の返還を求め続ける中、楚州城の築城と舟師の環守を建言。虞允文と可否相済し苟同しなかった。
  • 皇太子(孝宗の子恭王)が立った際、東宮の官属を選び講読員を増やすことを求め、王十朋・陳良翰を詹事に推薦した。允文の恢復論に朝臣が迎合する中、克家は密かに諫めたが合わず辞を求めた。上は「兵は用いられぬのか」と問い、克家は「用兵には財用が先決」と論じ、上は「朕はよく考えよう」と改めた。

右丞相として

  • 乾道8年(1172年)、僕射を左右丞相に改める際、克家は右丞相兼枢密使となった。允文が罷相した後、克家は単独で政を執り、近戚権倖にも容易に妥協しなかった。張説の枢密院入りに反対する公議を無視して再び登用が決まった時、克家は善類を調護した。
  • 金使の朝見と授書儀をめぐる議論で意見が合わず辞去を求め、観文殿大学士知建康府となった。辞去に際し、上に無理な奇功を求めぬよう勧めた。その後三省密院が独断で泗州に牒を送り金が従わず、湯邦彦が使事で貶されるなど、克家の慎重論の正しさが後に証明された。
  • 淳熙8年(1181年)、福州で治績を挙げ再任を経て、淳熙9年(1182年)9月右丞相儀国公。淳熙14年(1187年)6月薨去、享年60。手書の遺奏に孝宗は涙し、少師を贈り諡は文靖。孝宗は建邸の頃から克家の風度を愛し、文は渾厚明白で一家をなし、辞命の多くが世に行われた。