宋史卷三百八十四 列傳第一百四十三 陳康伯
陳康伯(字は長卿、信州弋陽の人、?–1165年、享年69)は宣和3年(1121年)上舎丙科に及第。完顔亮南侵の危機に際し宰相として親征を主導し、内禅・孝宗擁立にも関与した重臣。「静重明敏、真の宰相」と高宗に評された。文恭と諡され、後に孝宗廟庭に配享された。
年表(8件)
- 宣和3年1121年上舎丙科に及第した
- 紹興8年1138年樞密院大計議官、戸部司勲郎中に累進した
- 紹興13年1143年軍器監、借吏部尚書として金への使者となった
- 紹興30年9月1160年通政大夫守尚書右僕射同中書門下平章事となった
- 紹興31年3月1161年光禄大夫尚書左僕射となった
- 隆興2年1164年紹興府を判じるよう召されるも辞退、再任されて尚書左僕射同中書門下平章事兼枢密使、魯国公に進んだ
- 乾道元年正月1165年南郊の祀に陪祠したが、まもなく薨去、享年69
- 慶元初年(頃)1195年孝宗廟庭に配享され諡を文正と改められた
出自と初任
- 陳康伯は字を長卿といい、信州弋陽の人。父は亨仲、江東常平の提挙。康伯は幼くして学行があり、宣和3年(1121年)上舎丙科に及第、太学正に累進した。母の喪にあった時、貴溪の盗賊が郷里に迫るのを、康伯は義を挙げて逆撃し首魁を捕らえ、邑を全うした。
- 建炎末、勅令刪定官として紹興勅令の編纂に参与、衢州通判となり摂郡事として白馬原の盗賊を討伐。太常博士、江東常平茶塩提挙を経て、高宗が建康に進んだ際に対上し、将の選任などを進言した。
- 紹興8年(1138年)樞密院大計議官、戸部司勲郎中に累進。秦檜とは太学以来の旧知だったが、檜の政権下でも郎省に5年おり求めるところなく合わせようとしなかった。紹興13年(1143年)軍器監、借吏部尚書として金への使者となり、汴京で宴に応じず戸を閉ざして臥した逸話がある。
- 金使が来た際の館伴を務め、拝受礼をめぐる議論で言者に非を論じられ罷免。泉州知事となり、海賊の招撫と反乱鎮圧に当たった。祠禄で10年を過ごした後、秦檜死後に漢州知事として起用され、吏部侍郎となり節用寛民を説いた。
金主完顔亮の南侵と宰相就任
- 刑部を兼ねた時、それまで有司が秦檜の意に阿って大獄を起こしていたのを是正し士大夫の存没を助けた。吏部尚書に任じられ、高宗の意向で「権」を付さぬ正式な尚書として登用され、参知政事となった。
- 孫道夫の使北報告以来、金が馬買を口実に交渉を仕掛けてきたことを、康伯は同知枢密院事の王倫と共に指摘。紹興30年(1160年)9月、通政大夫守尚書右僕射同中書門下平章事となる。高宗は康伯を「静重明敏、一語も妄りに発せず、真の宰相である」と評した。
- 湯思退と共に輔政するよう命じられ、康伯は「大臣の事は当に公を尽くすべきで、阿って党を植えるようなことは自分にはできない」と述べた。
- 高宗が普安郡王(孝宗)を皇子として封建王とするよう決めた際、康伯はこれを助言した。紹興31年(1161年)3月、光禄大夫尚書左僕射。
- 金が使者を送り天申節を賀すると称しつつ嫚言で淮漢の地を求め将相大臣を出せと迫った際、康伯は礼部侍郎黄中の「斬衰三年」論を主とし、葉義問・賀允中の報告を受けて金の敗盟に備える四策(劉錡の荊南軍増強、両淮の分画防衛、劉宝の淮東担当再考、沿江諸郡の城壁修築)を建言した。
- 三衙帥・楊存中らを召して挙兵を議し、侍従台諫も集議させ、康伯は「今日はもはや和と守を問わず、戦をいかにすべきかのみを問う」と上旨を伝えた。内侍の張去為が用兵を妨げようとし、右相の朱倬は無言、同知枢密院事の周麟之は使金を憚る中、康伯だけは「私が宰相でなければ自ら行くべきだ。大臣は国と存亡を共にすべきで、死すとも避けない」と自任した。
- 殿中侍御史の陳俊卿が張浚の起用と張去為の斬刑を求めた際、康伯はこれを支持した。金軍が廬州を犯し王権が敗走すると、朝臣の多くが家族を避難させる中、康伯だけは家族を浙へ移す一方、臨安の城門の開閉を平時通りに保たせ人心を安定させた。
- 楊存中を召して議した際、康伯は自邸で酒宴を開いて安心させ、幸越・幸閩の勧めを退け、手詔で百官が散ろうとした時にはこれを焼いて上奏を続けた。親征の詔を主導し、葉義問を江淮軍の督とし虞允文を参謀軍事とした。允文は采石で金軍を破り、金主亮はその臣下に殺された。
- 金の新主・完顔雍(世宗)即位の報告を受け、書礼の議論で康伯は義をもってこれを正し、敵国の礼を用いる報書とした。高宗が譲位の意向を持った際、康伯は密かにこれを賛助し、太子を正式に立てる詔を起草した。孝宗即位に際し冊を奉じ、兼枢密使、信国公に封じられ、丞相と呼ばれ名を呼ばれない厚遇を受けた。
孝宗朝と晩年
- 病を理由に辞去を願い、太保観文殿大学士福国公として信州を判じた。隆興2年(1164年)、紹興府を判じるよう召され、再び辞退。しかし北兵が再び淮甸を犯すと世論は康伯の再任を望み、上は使者を送って召還し、尚書左僕射同中書門下平章事兼枢密使、魯国公に進んだ。
- 実際には病があり、輿で道を進み、闕下に至って子の安節・婿の文好謙に支えられて拝謁した。乾道元年(1165年)正月、南郊の祀に陪祠したが、まもなく病篤く輿で邸に帰り薨去、享年69。太師を贈られ、諡は文恭。
- 二子のうち偉節は直祕閣、安節は同進士出身を賜ったが五度辞退し、上は手札でこれを称えた。慶元初年(1195年頃)、孝宗廟庭に配享され諡を文正と改められた。