出自と諫言
- 汪澈は字を明遠といい、新安から饒州浮梁に移り住んだ。進士に及第し衡州・沅州の教授を務め、万俟卨の推薦で秘書正字・校書郎となる。監察御史、殿中侍御史として養民・養兵・自治・予備の説を数千言論じた。
- 顕仁皇后の攢宮(陵墓)の造営で周辺の墳墓を大規模に移転させる議論があった際、澈は視察の上、昭慈・徽宗・顕肅・懿節の四陵の先例を挙げ、無用な移転を止めさせた。
- 葉義問の使金報告を機に、備えの必要を説き、また「靖康の変」を鑑として、驕った将・惰った卒を蒐閲し文武の実才を選ぶべきと論じた。侍御史として、左相の湯思退の不人望を陳俊卿と共に弾劾し罷免させ、鎮江の大将劉寳の十罪も論じて節度を奪わせた。
- 春秋の魯隠公の故事を引き、雷震雨雪の異変を陰盛の証として金の脅威を警告、御史中丞として金使髙景山の恫喝に対し、益兵嚴備を訴えた。
- 殿帥の楊存中が久しく兵権を握り閹寺と結んでいたのを、王十朋・陳俊卿らと弾劾し罷免させた。
湖北京西宣諭使としての功績と晩年
- 御史中丞から湖北京西宣諭使となり、九江から出て邊事を論じ、田師中を老怯として更迭。荊南への移守論に対し「襄陽は荊楚の門戸、棄てるべからず」と主張。
- 劉蕚の10万の兵が荊南を狙い、光黄から武昌を襲おうとする動きに対し、呉拱を襄陽に留め鄂の余兵で黄州を戍させる策を献じ、金の樊城攻撃を漢水上での大戦で撃退させた。
- 唐・鄧・陳・蔡・汝・潁が次々帰属し、亮の死を機に淮甸出兵を求めたが、金の新主が和議を求め実現しなかった。参知政事として陳康伯と内禅を賛助。孝宗即位後、張浚の江淮出兵に参与督軍し、荊襄で分道進討を計画、古長渠を利用した屯田策で歳約70万斛の収穫を実現した。
- 隆興元年(1163年)、張浚の大挙に応じ出師を求められたが議が合わず、皇甫倜の孤軍を見捨てたなどの批判を浴び、資政殿学士提挙洞霄宮となる。その後、建康府・鄂州の知事、樞密使などを歴任。
- 唐・鄧の失地後の防衛について孝宗の下問に答え、機会到来を待つ姿勢を説いた。江州軍廃止論には反対、致仕して享年63で卒去、金紫光禄大夫を贈られ諡は荘敏。殿中侍御史時代に陳俊卿・王十朋・陳之茂を推薦し、樞密府で118人を推挙するなど人材登用に尽力した。文集20巻、奏議12巻がある。