宋史卷三百八十二 列傳第一百四十一 曽幾

嗣を巡る危機での献言

  • 曽幾、字は吉甫、その先は贛州の人、河南府に移った。母の喪に15年間服し、太学で名声を得て、兄曽弼の死により将仕郎に補し試吏部で優等となり、国子正兼欽慈皇后宅教授に抜擢、辟雍博士・校書郎を歴任した。
  • 林霊素の神霄録に朝士が阿ろうとする中、李綱・傅崧卿と共に病と称して従わなかった。応天少尹として内侍の不当な金取得に抵抗した。
  • 靖康初、淮東茶塩を提挙、高宗即位後は湖北・広西・江西・浙西の運判・提刑を歴任。兄曽開が秦檜と和議を巡り対立して罷免された際、幾も連座して罷免された。広西転運副使として駱科の乱の実情を正確に報告し、宣撫司の虚偽の捷報を正した。
  • 秦檜死後、浙西提刑知台州として清浄な統治を行い、黄巌県令の贈収賄事件を厳正に処理、賀允中の推薦で対策、士気を高める過程での行き過ぎを戒めつつ言路の拡大を支持し、祕書少監に至った。
  • 神宗宝訓の編纂を成功させ、権礼部侍郎として兄楙・開と共に礼部を歴任したことを栄誉とされた。呉越の水害・地震に際し唐の貞元の故事を論じ、陸贄の言を引いて対策を促した。
  • 完顔亮の南侵に際し百官が海上逃避を議論する中、楊存中の主戦論を支持し、増幣による和議に反対し「膽を嘗め戈を枕にすべき」と説いた。孝宗受禅後も長文の上疏を行い、通奉大夫致仕、82歳で卒し文清と諡された。
  • 三度嶺表に仕えても家に長物なく、廉潔と称された。劉安世・胡安国に学び、文章は純正雅健、詩に優れ、経説20巻・文集30巻がある。