蜀出身の実務官
- 孫道夫、字は太冲、眉州丹稜の人。元祐学禁に連座し籍を除かれたが再挙し優等、張浚の推薦で高宗に対策、修徳・定都・任賢材・図興復・雪国恥を説いた。
- 漢中・荊南の戦略的重要性を説き、蜀漢の師は秦関から、荊楚の師は宛洛から出て帝が淮甸で諸将と会すべしと献策、文才を評価され祕書正字・権禮部郎官・権左司員外郎を歴任、蜀の水運・陸運の得失(水運は遅いが安く、陸運は速いが民を苦しめる)を論じ帝の支持を得た。
- 知懐安軍として都運司の廃止、戍兵の削減、泛使の廃止で民力を軽減、知資州として治行第一と評され、知蜀州では機を見て水晶灯籠と綽名されるほど明敏な政務処理を見せた。綾織の官営機織の弊害を断ち民の負担を軽減、9年間の不遇(秦檜に嫌われたため)を経験した。
- 吏部郎中として蜀の二税・塩酒茶の弊害を上奏、太常少卿假禮部侍郎として賀金正旦使を務め、秦檜の存亡や関陝買馬の非約を巡り金使を論破した。権禮部侍郎として趙鼎・張浚の対立以降、蜀士が朝廷で抑圧されていることを訴え、金の侵攻の兆しに対する備えを説いた。
- 宰相沈該が張浚の与党と疑い忌んだため出仕し辛くなり、知綿州に転じて致仕、66歳で卒した。官途30年間、私を交えず、剛直な性格で人の短所を面と向かって指摘したため一部から敬遠された。