宋史卷三百八十二 列傳第一百四十一 黄中

禮部での実直な諫言

  • 黄中、字は通老、邵武の人。族祖の蔭により補官、紹興5年(1135年)廷試で「孝弟が君心を動かす」と論じ進士第二人となり、保寧軍節度推官を経て20余年後、秦檜死後に校書郎として召された。
  • 普安・恩平府教授として王府に仕えた際、龍大淵が寵愛される中でも媚びず、独り態度を変えなかった。司封員外郎兼国子司業として、武成廟の芝草の瑞祥報告を上奏しないよう命じ「治世に瑞祥など不要」と評された。
  • 起居郎・権礼部侍郎として金からの帰国使が汴宮への遷居強制を報告した際、宰相沈介が触れなかったことを指摘して罪を待ったが逆に沈介が吏部侍郎に転じ、中は防備強化を訴え続けた。欽宗の訃報を巡り、天申節(誕生日祝)を中断させ喪礼を優先させた。
  • 完顔亮の南侵時、淮西の将士の統制不備を指摘し、楊存中の御営使起用に反対、朝臣が家族を避難させる中、中は陳康伯と共に平然と城中に留まり称賛された。欽宗の服喪未完了時の作楽に反対し、実現を阻止した。
  • 給事中として内侍の不当な昇進や近習龍大淵の処罰の甘さを問題視、尹穡に張浚の党と讒言され罷免、乾道改元(1165年)時に70歳で致仕、後に召還され兵部尚書兼侍読、山陵問題(欽宗梓宮)の未解決を訴え続けた。
  • 十要道(用人・公議・察邪正・言路・実効・監司・貪吏・方略・兵籍の整備)を上疏、致仕後も後生に孝弟忠信を訓じ、朱熹も敬慕の書を送った。淳熙7年(1180年)85歳で卒し、正議大夫を贈られ簡粛と諡された。奏議10巻がある。