宋史卷三百八十二 列傳第一百四十一 張燾

李綱の幕僚から諫議へ

  • 張燾、字は子公、饒州徳興の人。祕閣修撰張根の子。宣和8年(1126年)進士第三人。李綱が親征行営使となった際に幕僚に招かれ、綱が貶されると連座者17人の一人として貶された。
  • 建炎初、明受の変(苗劉の乱)で賊が矯詔により燾に江浙撫諭を命じたが受けず、上(高宗)復辟後の求言に応じ「人主の戡定は至誠に基づかねば成らぬ」と論じ、江防策の無益、台諫の観望姿勢、巡幸地での土木工事による民の困窮を批判した。
  • 紹興2年(1132年)呂頤浩の推薦で司勲員外郎、起居舎人として敵情偵察の重要性を説き、中書舎人として呂祉の淮西撫諭起用に反対(「書生は軍旅に通じない」)したが張浚は聞かず、結果として酈瓊の変を招いた。
  • 紹興7年(1137年)張浚の兄張滉への進士出身賜与に反対し、「宰相の兄への特別待遇は公議に反する」と論じ、著作郎何掄の追従的な取次にも抗議、集英殿修撰提挙江州太平観に退いたが、翌年兵部侍郎として召還され「一紀(12年)の間に14人の宰相・執政の頻繁な交代」を批判し「先に定まった規模」の重要性を説いた。
  • 権吏部尚書として、靖康の変で節を失いながら贈官された黎確への恩典に反対し、追奪させた。金使来訪時の屈己の和議に対し、天意を人事に照らして「甲寅・丙辰・丁巳の勝利は天の助け」と論じ、和議は聴くに留め信じるべきでないと主張、金の詔に対する拝礼の強要にも強く反対した。
  • 施廷臣・莫将の躍進に対し晏敦復と連署で弾劾、勾龍如淵にも「あなたが薦めた七人は皆張邦昌に従った者、今また媚びへつらえば後日必ず君親に背くだろう」と面詰した。檜がこれを恨み、燾も病と称して出仕を控えたが屈しなかった。
  • 和議成立後、范如圭の建議で八陵朝謁の使者となり、士㒟と共に永安の諸陵を巡り、荊棘を切り開いて修復、涸れていた石澗の水が使者到着時に湧いたという瑞祥が伝わった。帰還後「金人の禍は山陵に及んだ、武備を修め時機を待って報復すべし」と上疏、永固陵の金玉埋葬に反対して質素な埋葬を実現させた。酈瓊の旧部隊の活用や間諜活動の強化も進言した。
  • 秦檜が和議を主とする中、成都の帥選びで帝の指名により知成都府兼本路安撫使となり、便宜の権を与えられ賦斂の重い四川の民を救済、在蜀4年、貪吏を除き租税を軽減し、雅州蕃部を安撫し、旱害時には粟を放出した。契丹降人受入問題では胡世将の反対意見を採用し慎重に対応した。
  • 秦檜死後、知建康府兼行宮留守として金陵の積年の内庫銭帛を免除、大理での係争を裁いた。端明殿学士、吏部尚書として孝宗(普安郡王)の立嗣を帝に進言し「儲貳は国の本」と応じ、帝の決断を後押しした。省賜予・罷土木・減冗吏・止北貨も進言した。
  • 金使施宜生が同郷のよしみで敵情を漏らしたことを密奏し、甲庫・酒庫の濫費や教坊楽工の削減も献策、帝に「責難於君」と評された。資政殿学士致仕を経て、金の侵攻の危機に際し再び知建康府に起用され、民心を鎮めた。恢復十事を上奏し、孝宗受禅後は同知枢密院、参知政事に至るも老病で就任辞退、資政殿大学士提挙万寿観を経て致仕、75歳で卒し忠定と諡された。
  • 人柄は外和内剛、蜀での恵政は民に慕われ、和議への抵抗と施廷臣弾劾は世論の支持を集めた。