蜀での実務と直言
- 勾濤、字は景山、成都新繁の人。崇寧2年(1103年)進士、川陝鋳銭司の属官を経て、建炎初通判黔州として田祐恭の軍を慰撫し禍を防いだ。湖湘の賊王闢の侵攻にも黔兵を率いて対処した。
- 張浚の推薦、范冲の推薦で召見され対策、兵部郎中・右司郎官として日食の校正を兼ねた。屯田策では羊祜の故事を引いて淮西の劉光世罷免後の呂祉起用に反対(「祉は疎庸浅謀で必ず事を誤る」)、結果は的中し酈瓊の乱で祉は死んだ。
- 建康からの遷都議論に反対し劉錡の合肥駐屯を薦めた。呉玠と転運使李迨の対立を仲裁し「玠の功は蜀にあり、費用を惜しむべきでない」と裁定。劉豫廃止後、郭浩の弟郭沔の登用を提言し陝右諸将の帰順を促す詔を起草した。
- 中書舎人・史館修撰として哲宗実録・徽宗実録の重修を担当、昭慈聖献皇后の遺言(蔡卞らの誣史を正すべし)を継承し、崇寧・大観の姦臣の誣史を厳しく批判した。呂本中の起用に慎重な配慮を求めた。
- 給事中として時政の弊害五事(王倫の地界変更、蔡攸妻の行都居住、謫籍者の甄叙の不公平、河南新附民への恩恵不足、台諫の私党化)を上奏、帝に忠直を称され、湖州提挙となり59歳で卒した。身長七尺、風貌偉然で忠亮を自任し、辺情に精通していたと評される。文集10巻・西掖制書10巻・奏議10巻がある。