宋史卷三百八十一 列傳第一百四十 趙逵

秦檜への抵抗

  • 趙逵、字は荘叔、その先祖は秦人で八世祖の代に蜀に移住。読書に優れ歴代の興亡治乱を究め、紹興20年(1150年)類省試を経て翌年の対策で君臣父子の情を論じ首席となった。秦檜の意中の別人(王曮)を差し置いての合格であり、檜に忌まれた。
  • 校書郎として、徴税官の私利追求に抵抗し、行李の中身が書籍ばかりであったという逸話が伝わる。檜への私謁を拒み、御製の芝草詩に「皇心未敢宴安」の句を含めたことが檜の怒りを買った。檜が財を贈ろうとしたが断り、檜が死ぬまで擠陥されそうになったが免れた。
  • 帝は逵を厚遇し、「始終朕自ら擢用した、秦檜は毎日人材を薦めるが卿には一度も言及しなかった、これで卿が権貴に阿らぬ真の天子門生だと知る」と語った。普安郡王府教授として言路の拡大を求め、戾太子の故事(漢の江充事件)を巡る問答でも節度を守った。
  • 起居郎として「秦檜の権勢に阿らぬのは卿だけ」と再評価され、著作郎・同知貢挙として王十朋・閻安中らを公正に選抜した。蔣璨の不正登用問題では給事中辛次膺を支持し、璨は蘇州に左遷された。
  • 中書舎人として登第6年で外制を担当(南渡後最速)、帝は王綸に「趙逵は純正で用いるに足る、蜀の士に比類なし、権貴に阿らなかった証」と語った。杜莘老・唐文若・孫道夫ら蜀の名士を薦挙し、馮方・劉儀鳳・李石・郯次雲らも推薦した。
  • 病により外任を求めたが、国医の診察も及ばず41歳で卒した。帝は涙を拭って嘆息した。人柄は司馬光の「非色に近づかず非財を取らず」を模範とし、文章は蘇軾に似ることから「小東坡」と称された。棲雲集30巻がある。

史論

  • 范如圭は胡安国に、王居正は楊時に、晏敦復は程頤に、呉表臣は陳瓘に学び、その師友の淵源には由来がある。それゆえ議論は正直剛厳で、異説に惑わされず強権に屈しない点で共通している。
  • 王居正が王氏三経の誤りを弁じ、黄龜年が真っ先に秦檜の和議の非を弾劾し、程瑀が蔡京の党を力強く排斥したことは、名教にとって特に功績が大きい。
  • 張闡は事を論じて避けることなく、洪擬は朴実端正、趙逵は純正で文才に秀で、いずれも一時の良臣として秦檜に忌まれながらも屈しなかった。「歳寒くして後に松柏の凋まざるを知る」との言葉はまさにこれを指すものである。