禁欲と実務手腕
- 洪擬、字は成季(一字は逸叟)、鎮江丹陽の人。本姓は弘、避諱により洪に改姓。進士甲科、国子博士から提挙利州路学事、監察御史・殿中侍御史・侍御史を歴任、王黼・蔡京の専権下でも中立を保った。
- 知桂陽軍・海州として山東の盗賊の侵攻を防いだ。母の喪の後、起居郎中書舎人として、戦乱による過重な課税(無屋の屋税、無丁の丁税)の弊害を指摘し、財を豊かにする根本は節用にあると説いた。
- 高宗の饒信間への遷都構想に対し「四通五達の地を捨てて偏方に赴くのは形勢を示せず守禦も固まらない」と反対した。給事中吏部尚書として、地方経験のなさを理由に龍図閣待制知温州となったが、宣撫使孟庾の福建討伐支援では自ら封椿銭を用いて軍を犒った責任を負った。
- 渡江後の煩雑な法令を七司敕令として整理する事業を統括し、金の再侵に際しては「国勢が強く士気があり財用が足りてこそ戦える」と現実的な守勢論を説いた。
- 紹興3年(1133年)天旱地震の求言に応じ、法の公正な運用(監司守臣の羨余献上を黜けながら宣撫司には見逃す不公平など)を指摘した。甥の興祖の上封事に連座し親子共に罷免され、卒年75歳、文憲と諡された。
- 趙万の叛乱で母を連れて避難した際、賊に「死は避けぬが老母を驚かせないでほしい」と説き見逃されるなど、人柄と孝行が評価された。『浄智先生集』、杜甫詩注20巻がある。