秦檜への抗議
- 范如圭、字は伯逵、建州建陽の人。舅の胡安国に春秋を学び進士に登第、左従事郎武安軍節度推官として、帥が誤って人を斬ろうとした際に「一字を軽んじて数人の命を軽んじるのか」と諫めてこれを正した。
- 江東安撫司書写機宜文字を経て秘書省正字・校書郎兼史館校勘に召された。秦檜が和議を推進し金使を迎える際、秘書省を明け渡そうとしたのに対し「秘府の謨訓の地を仇敵に居させてよいのか」と趙鼎に訴え、館を改めさせた。
- 金使の傲慢な態度に対し、同僚10余人と連署の上奏を準備したが皆が怯んで退く中、如圭は独り檜に「曲学倍師忘讎辱国の罪、必ず万世に臭を遺す」と書を送って糾弾、史官6人と共に上奏した。
- 金が河南の地を返還した際、檜がこれを自らの功としたのに対し、如圭は九廟八陵が目前にあるのに未だ修復使が遣わされていないと訴え、帝は感動して宗室士㒟・張燾を派遣させた。檜は事前に相談されなかったことに怒った。
- 母の喪に服した後、荊南府等の地方官を歴任、荊南の未回収税を全て免除させ、檜の死後は入対して「治は知人を先とし、知人は清心寡欲を本とす」と論じた。東南の不挙子(間引き)の風習を憂い、漢の胎養令に倣った救済策を上奏した。
- 屯田の弊害(収穫を官が全て徴収する現行制度)を批判し、井田・助法に倣った新制度を提案。宗室の儲位問題が定まらず異論が渦巻く中、至和・嘉祐年間の名臣奏章36篇をまとめて上奏、帝を感動させ普安郡王を皇子・建王とする決定を後押しした。
- 知泉州として南外宗官の暴虐を法により正したが恨みを買い、罷免されて邵武に隠棲、59歳で卒した。忠孝誠実の人柄で、経術に基づく学問を持ち、無用の文を書かなかった。屯田策の草稿数千言は未上奏のまま張浚に持ち去られ実現しなかった。